人麿の妻
斎藤茂吉
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)軽《かる》の
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)妻|依羅《よさみ》娘子の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)(一)[#「(一)」は縦中横]
[#…]:返り点
(例)弟子等奉[#レ]遺火[#二]葬於粟原[#一]
[#(…)]:訓点送り仮名
(例)人麻呂[#(カ)]妻依羅[#(ノ)]娘子
−−
人麿の妻は、万葉の歌から推しても、二人だといふ説があり、三人だといふ説があり、四人だといふ説があり、五人だといふ説がある。今次に可能の場合を記載しながら、決定して行き、先進の説を附載するつもりである。
(一)[#「(一)」は縦中横] 軽娘子。 人麿が、妻が死んだ後泣血哀慟して作つた長歌、([#ここから割り注]巻、二二〇七、二一〇、二一三[#ここで割り注終わり])のはじめの歌に、『軽《かる》の路《みち》は吾妹子が里にしあれば、……吾妹子が止まず出で見し軽《かる》の市《いち》に』とあるので、仮に人麿考の著者に従つてかく仮名した。この長歌で見ると、秘かに通つてゐたやうなことを歌つてゐるが、此は過去を追懐して恋愛初期の事を咏んだ、作歌の一つの手段であつたのかも知れない。
(二)[#「(二)」は縦中横] 羽易娘子。 長歌の第二に、『現身《うつせみ》と念ひし時に取持ちて吾が二人《ふたり》見し』云々、『恋ふれども逢ふよしをなみ大鳥の羽易《はがひ》の山に』云々とあつて、羽易の山に葬つた趣の歌であるから、これも人麿考の著者に傚つて仮にかう名づけた。この長歌には、『吾妹子が形見に置ける若《わか》き児《こ》の乞ひ泣く毎に』云々とあつて、幼児を残して死んだやうに出来てゐる。それだから、この羽易娘子と軽娘子は別々な人麿の妻だと考へてゐる論者が多い。けれども、人麿が長歌を二様に作り、第一の長歌では遠い過去のこと、第二は比較的近事のことを咏んだとせば解釈がつくので、此は同一人だと考へても差支ないと思ふ[#「此は同一人だと考へても差支ないと思ふ」に傍点]。
(三)[#「(三)」は縦中横] 第二羽易娘子。 第三の長歌(或本歌曰)は第二の長歌と内容が似て居り、『吾妹子が形見に置ける緑児《みどりご》の乞ひ哭《な》く毎に』と云つて幼児の事を咏んでゐるが、違ふ点[#「違ふ点」は底本では「遠ふ点」]は、『現身と念ひし妹が灰にてませば』といふ句で結んだところにある。賀茂真淵は、以上の三娘子のうちを二人と考へ、軽娘子を妾と考へ、羽易娘子を嫡妻と考へた。そして羽易娘子と第二羽易娘子を同一人と看做し、それが嫡妻で人麿の若い時からの妻だらうから、この妻の死は、火葬のはじまつた、文武天皇四年三月([#ここから割り注]文式紀に、四年三月己未、道昭和尚物化。時七十有二、弟子等奉[#レ]遺火[#二]葬於粟原[#一]。天下火葬従[#レ]此而始也[#ここで割り注終わり])以前で、未だ火葬の無かつた頃と想像せられるから、『灰』字は何かの誤だらうと云つた。それに対して岸本由豆流は、『何をもて若きほどの事とせらるるにか。そはこの妻失し時若児ありて後にまた依羅《ヨサミ》娘子を妻とせられし故なるべけれど、男はたとへ五六十に及たりとも子をも生せ妻をもめとる事何のめづらしき事かあらん』([#ここから割り注]万葉集攷証第二巻三二一頁[#ここで割り注終わり])と駁してゐる。攷証の説を自然と看做して其に従ふとせば、以上の三娘子を同一人と考へて差支ない。([#ここから割り注]なほ、火葬の事。灰字のことにつき木村正辞、井上通泰の説があるから、別なところに記して置いた。[#ここで割り注終わり])この事は山田博士も、『余はこれは一人の妻の死を傷める一回の詠なりと信ず』([#ここから割り注]講義巻第二[#ここで割り注終わり])と論断してゐる。そしてこの人麿の妻の死を文武四年三月以後([#ここから割り注]仮に文武四年[#ここで割り注終わり])とし、それから依羅娘子を娶つたとし、人麿の死を和銅三年三月([#ここから割り注]寧楽遷都[#ここで割り注終わり])以前で、仮に和銅二年だとせば、その間和銅二年迄九年の歳月があるのだから、依羅娘子との関係も理解が出来、石見娘子([#ここから割り注]即ち依羅娘子[#ここで割り注終わり])と別れた時の長歌に、『玉藻なす寄り寝し妹』といひ、『さ寝し夜は幾《いく》だもあらず』といふ句が理解出来るのである。和銅二年を人麿四十七歳と仮定すれば依羅娘子を娶つたのは慶雲元年あたりで四十二歳位ででもあつただらうか。依羅娘子は歌も相当に作つた女であつた。代匠記、依羅娘子が人麿と別るる歌の処に、『人麿の前妻は文武天皇四年以後死去と見えたり。[#ここから割り注]中略[#ここで割り注終わり]然れば此妻は大宝慶雲の間に迎へられたるべし』とあるのは期せずして慶雲元年頃の愚案と略一致した。
(四)[#「(四)」は縦中横] 石見娘子。 人麿が石見国から妻と別れて上り来る時詠んだ長歌が三首([#ここから割り注]巻二、一三一、一三五、一三八[#ここで割り注終わり])と反歌が合せて、六首([#ここから割り注]巻二、一三二、一三三、一三四、一三六、一三七、一三九[#ここで割り注終わり])載つてゐる。歌の内容が少しづつ違ふが、これを同一の女と看做し、石見にゐた、即ち人麿と一処に住んでゐたのだから、仮に便利のため石見娘子と名づける。長歌を見ると、『玉藻なす寄り寝し妹を露霜のおきてし来れば』。或は、『靡き寝し児を深海松《ふかみる》の深めて思《も》へどさ寝《ね》し夜は幾《いく》だもあらず』。或は、『玉藻なす靡き吾が寝し敷妙の妹が袂を露霜の置きてし来れば』云々と詠んで居り、石見ではじめて情交をなした女の如くにも見えるし、或は同行したとも考へられるが、当時の官吏などは妻を連れて行かぬのが普通であつただらうか。この女に就いてはなほ考弁の説が参考になるだらう。
(五)[#「(五)」は縦中横] 依羅娘子。 右の人麿の歌の次に、柿本朝臣人麿の妻依羅娘子人麿と相別るる歌として、『な念ひと君はいへども逢はむ時いつと知りてか吾が恋ひざらむ』(巻二、一四〇)が載つて居り。また、人麿が石見で死が近づいた時に、『鴨山の磐根し纏《ま》ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ』(巻二、二二三)と咏み、その歌の次に、人麿が死んだ時、妻|依羅《よさみ》娘子の作れる歌二首として、『今日《けふ》今日《けふ》と吾が待つ君は石川の貝に[#ここから割り注]一に云ふ谷に[#ここで割り注終わり]交りて在りといはずやも』(二二四)。『直《ただ》の逢《あひ》は逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲《しぬ》ばむ』(二二五)といふのが出て居る。人麿の長歌で見ると、新たに情交を結んでまだ間もない女でもあるやうだが、その次に、『な念ひと』の歌が載つてゐるから、この万葉の記載に拠るとせば、第一の石見娘子《いはみのをとめ》[#ここから割り注]従便利名[#ここで割り注終わり]と依羅娘子《よさみのをとめ》とは同一人だといふことになる。そして石見で得た妻だといふことになる。それから、人麿が死んだ時に、依羅娘子は京師に止まつてゐたやうに賀茂真淵等が考へて居り、古義、考弁、樋口氏等もさう考へてゐる。そして此説は絶待には否定し難いけれども、万葉の歌を見れば必ずしもさうでなく、娘子が其時石見にとどまつてゐたと見ることも出来るのである。依羅氏は、新撰姓氏録摂津国皇別に、依羅《ヨサミノ》宿禰の条に、日下部宿禰同祖、彦坐命之後也とあり、又、河内国諸蕃、依羅《ヨサミノ》連の条に、百済国人素弥志夜麻美乃君之後也とある。依羅娘子といづれかの関係があるのではなからうか。石見八重葎の著者は、娘子は石見の出だが、人丸の妻となるにつき、依羅氏を名のつたのであると記載してゐるが、此は想像である。
右の如く可能の場合の五人の妻を考へたが、軽娘子[#「軽娘子」に傍点]・羽易娘子[#「羽易娘子」に傍点]・第二羽易娘子を同一人だとし[#「第二羽易娘子を同一人だとし」に傍点]、石見娘子[#「石見娘子」に傍点]・依羅娘子を同一人だとせば[#「依羅娘子を同一人だとせば」に傍点]、併せて二人といふことになる[#「併せて二人といふことになる」に傍点]。真淵の依羅娘子観には或程度まで同情せねばならぬ点があるが、人麿が石見に行き、京に妻を残して置いて、直ぐ妾《おもひめ》を得たといふのもどうかとおもふし、特に、山田孝雄博士の説に従つて、妻といふ字は嫡妻に用ゐるものだとせば([#ここから割り注]講義巻第二[#ここで割り注終わり])、やはり石見娘子・依羅娘子同人説の方が自然である。
(六)[#「(六)」は縦中横] 巻四の人麿妻。 巻四(五〇四)、柿本朝臣人麿の妻の歌一首の妻は誰か。不明だが、代匠記では、はじめの妻と考へて居る。さて、そのほかに、贈答の恋歌を咏んだ程度、或はいひわたつた程度のものはこれは幾人あつてもいいので、古義でもまた岡田正美氏もさう考へてゐる。柿本朝臣人麿歌集出といふのの中には恋歌が可なりあり([#ここから割り注]巻九、一七八二、一七八三参照[#ここで割り注終わり])、その中に実際の人麿作もあり得るとせば、以上の二人の妻のほかに幾人かの恋人がゐたものと想像してかまはぬのである。人麿の妻について先進の考を次に列記する。
人麿勘文に云。『人麿有[#二]両妻[#一]。其故者石見国依羅娘子者已為[#二]後家[#一]。妻死之後泣血哀慟作歌者別妻。然而此万葉四巻作歌者両人之中何婦乎。付詠歌者依羅娘子歟、尚又不審』。
これは二人説だが、一人は依羅娘子、一人は軽娘子(羽易娘子)で、巻四人麿妻はそのうちのいづれだらうかといふのである。これは私等の説と合致して居る。
代匠記に云。『人麿に前後両妻あり。石見にて別を惜みし妻は後に呼び上せて軽の市辺に置くか。巻二に人麿妻の死を悼て作れる歌多き中に第一の歌に見えたり。第四に此妻の歌一首あり。姓名をいはずして人麿妻といふは此人なり。後の妻依羅娘子也』云々。これも二人説だが、石見娘子・軽娘子・羽易娘子・巻四人麿妻が皆同一で一人。他の一人は依羅娘子といふ説である。そして依羅娘子は京に止まつてゐたやうに考へてゐる。
万葉童蒙抄に、石見で別れて来る妻について、『人麻呂妻には前後妻あり。此妻は前妻と見えたり。後に京にてもとめられたる妻は依羅娘子といへり』といひ、また人麿の妻が死んだ時の人麿の歌の処で、『此妻は依羅娘子の前の妻なるべし、依羅娘子は後妻と見えたり』と云つてゐる。即ち、石見娘子と依羅娘子を別人と考へて居り、死んだ軽娘子・羽易娘子を同一人と考へてゐるらしいから、童蒙抄は三人説だと謂つていいと思ふ。
賀茂真淵、万葉考別記に云。『人まろが妻の事はいとまどはしきを、こころみにいはんに、始め後かけては四人か、其始め一人は思ひ人、一人は妻なりけんを、共に死て後に、又妻と思ひ人と有しなるべし、〔[#ここから割り注]始め二人の中に、一人は妻なり、後二人も一人は妻なりと見ゆ、然るを惣て妻と書しは後に誤れるならん、石見に別れしは、久しく恋し女に逢初たる比故に、深き悲みは有けん、むかひめはむつまじさことなれど、常の心ちには、かりそめの別を、甚しく悲しむべくもあらず[#ここで割り注終わり]〕何ぞといはば、此巻の挽歌に、妻の死時いためる歌二首並載たるに、初一首は忍び通ふほどに死たるを悲むなり、次の一首は児《コ》ある女の死を悲むめれば、こはむかひめなりけん、[#ここから割り注]これらは石見の任よりいと前なり[#ここで割り注終わり]かくて後に石見へまけて、任《マケ》の中に京へ上る時、妻に別るとて悲しめる歌は考にいふが如し、然れども考るにこは妻といふにはあらで、石見にて其頃通ひ初し女ならん、其歌に、さぬる夜はいくばくもあらではふつたの別し来ればとよみたればなり、又其別れの歌についでて、人麻呂[#(カ)]妻依羅[#(ノ)]娘子、与[#二]人麻呂[#一]別時[#(ノ)]歌とて、思ふな
次へ
全2ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
斎藤 茂吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング