たやうに賀茂真淵等が考へて居り、古義、考弁、樋口氏等もさう考へてゐる。そして此説は絶待には否定し難いけれども、万葉の歌を見れば必ずしもさうでなく、娘子が其時石見にとどまつてゐたと見ることも出来るのである。依羅氏は、新撰姓氏録摂津国皇別に、依羅《ヨサミノ》宿禰の条に、日下部宿禰同祖、彦坐命之後也とあり、又、河内国諸蕃、依羅《ヨサミノ》連の条に、百済国人素弥志夜麻美乃君之後也とある。依羅娘子といづれかの関係があるのではなからうか。石見八重葎の著者は、娘子は石見の出だが、人丸の妻となるにつき、依羅氏を名のつたのであると記載してゐるが、此は想像である。
右の如く可能の場合の五人の妻を考へたが、軽娘子[#「軽娘子」に傍点]・羽易娘子[#「羽易娘子」に傍点]・第二羽易娘子を同一人だとし[#「第二羽易娘子を同一人だとし」に傍点]、石見娘子[#「石見娘子」に傍点]・依羅娘子を同一人だとせば[#「依羅娘子を同一人だとせば」に傍点]、併せて二人といふことになる[#「併せて二人といふことになる」に傍点]。真淵の依羅娘子観には或程度まで同情せねばならぬ点があるが、人麿が石見に行き、京に妻を残して置いて、直ぐ
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