臣云。『熟考るに、初に依羅石見国高角辺に住し人にて、人麻呂在国の間に私通し、人麻呂朝集使にて仮に上京の時には、上の二首の長歌を作玉ひ、人麻呂任終て永き別の帰京なれば此勿念跡の歌をば依羅の石見に残居て作なるべし。然るを人麻呂京に帰て後、嫡妻は死れける[#「死れける」は底本では「死けれる」][#ここから割り注]任国の間は嫡妻の京に残居しことは論なし[#ここで割り注終わり]故に初石見にて通し女なれば、依羅を京へ召上せて後妻となしたるが、其後再度人麻呂石見に下りて病死せし時は、依羅又京に残留て今日今日と我待君はの歌をば作しなるべし』(考弁)。つまり、熊臣の説では石見娘子依羅娘子は同一人で、軽娘子と羽易娘子を二人と看做すから、三人説となるのである。なほ熊臣は、『さて後依羅をば娶り給へるなるべし。但し依羅も私聘なりしや其は不可弁といへども、再度下向の時京に残居し状なれば、後の本妻にもありぬべし。任国に妻を携ふることもありしかども、大概は不携往ことなり』(考弁)と論じてゐる。
岡田正美氏云。『予按ふに、人麿嫡妻前後両人ありしこと論なし、おもひ妻は二人ならず、土方娘子を数へ入れて三人なるべし。(吾住坂の歌よみし妻は今算入せず)、委しくは予が先にのべたるがごとし。さておもひ人はその数はいくたりといふことを数ふべくもあらず。此説古義にもいへり。茲に第九歌集中の歌に、与妻歌一首。雪己曾波、春日消良米、心佐閉、消失多列夜、言母不往来。妻和歌一首。松反、四譬而有八毛、三栗、中上不来、麻追等言八方。とあれどもこれは、歌のさまをおもふに人麿のとしもおもはれねば、とらず』。これで見ると岡田氏は五人説だが、土方娘子をも入れてゐるのである。その他|妾《おもひめ》は幾人ゐるか分からないといふのだが、これも一つの看方である。
関谷真可禰氏は、四人説で、第一軽娘子、第二羽易娘子、第三依羅娘子、第四石見娘子となるのである。関谷氏は人麿が第一の妻と二十九歳で結婚し、四十四歳で第四の妻と結婚したやうに計算して居る(人麿考)。
樋口功氏云。『石見娘子と依羅娘子とを同人と見、軽娘子と羽易娘子とを加えて三人と見るのが先づ最も穏当な説かと思ふ。石見で別れた妻が依羅と同人かと思はれることは既に再三いつた』(人麿と其歌)。これは三人説で、軽娘子と羽易娘子とを別人として考へてゐる。
山田孝雄氏は、人麿妻死之後泣血哀慟作歌の処の軽娘子、羽易娘子等を同一人とし、『この故に余はこれは一人の妻の死を傷める一回の詠なりと信ず』(講義巻第二)といひ、また、人麿死時妻依羅娘子作歌二首のところで、『上京の際石見国に置きたる妻が即ち依羅娘子なるべきことは否定すべからねば、ここもその石見国にこの依羅娘子は在りしならむ』(講義巻第二)といつてゐる。つまり、石見娘子と依羅娘子が同一人で、軽娘子・羽易娘子が同一人と見るから、二人説となるのである。
底本:「日本の名随筆61 万葉(一)」作品社
1987(昭和62)年11月25日第1刷発行
1992(平成4)年9月20日第8刷発行
底本の親本:「齋藤茂吉全集 第一五巻」岩波書店
1973(昭和48)年7月初版発行
※疑問の箇所は、親本を参照して直し、注記しました。
入力:門田裕志
校正:氷魚、多羅尾伴内
2003年12月27日作成
2005年11月24日修正
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