と君はいへどもあはん時いつと知てか吾こひざらんとよみしは、載《のせ》し次《つい》でに依《よれ》ば、かの石見にて別れしは即此娘子とすべきを、下に人まろの石見に在て身まからんずる時、しらずと妹が待つつあらんとよみ、そを聞てかの娘子、けふけふとわが待君とよみたるは、大和に在てよめるなれば、右の思ふなと君はいへどもてふは、石見にて別るるにはあらず、こは朝集使にてかりにのぼりて、やがて又石見へ下る時、むかひめ依羅娘子は、本より京に留りて在故にかくよみつらん、〔[#ここから割り注]国の任に妻をばゐてゆかざるも、集中に多し、[#ここで割り注終わり]〕あはん時いつと知てかといふも、かりの別と聞えざるなり、然ればかの妻の死て後の妻は依羅娘子なるを、任にはゐてゆかざりしものなり、人まろ遠き国に年ふれど、此娘子|他《ヒト》にもよらで在けんも、かりの思ひ人ならぬはしらる』云々。これで見ると、真淵は四人説で、人麿が妻の死を慟んだ時のは一人は妾《おもひめ》、一人は正妻《むかひめ》と考へてゐる。この二人は死んだ。それから石見から別れて来た妻は、石見で得た妾《おもひめ》で、その時の正妻は依羅娘子で、これは京に止まつてゐた。それだから、な念ひと君はいへどもの歌は依羅娘子が京に止まつてゐて、人麿が石見に朝集使か何かで帰つて行く時に咏んだものである。それから、人麿が石見で死に臨んだ時、『知らにと妹が』といふのは大和にゐた依羅娘子のことである。それだから、人麿が死んだ時、『今日今日と吾が待つ君は』と咏んだ依羅娘子は、その時大和に残つてゐたのである。右の如くに真淵は解釈してゐる。真淵のこの解釈は、人麿の歌の内容から推測したところが多い。併し歌には言葉の綾があるので、直ぐその儘伝記にならぬ点がある。
石田春律云。『[#ここから割り注]古人[#ここで割り注終わり]依羅娘子。此御方ハ柿本人丸朝臣三人目ノ後妻ナリ。和歌ノ達人世ニ其名高シ。遂ニ本妻トナサレ、都ヘ召レ上レ、饒速日命十四世ノ孫依羅蓮ノ養女トナリ、義父ノ名ヲカタトリ、右ノ御名付ルヨシ。其頃人丸ハ天皇ヲ始メ女御皇妃ニ交リ歌ノ御師ナレバ、其妻モ同様御所方ニ召サレ候ヘバ、下民ノ娘ニテハ不都合ユヘ、依羅氏ノ義女トナリ玉フトナン。実父ハ当国那賀郡角野本郷今西岸寺ノ前井上道益ト申ス医者ノ娘也。[#ここから割り注]下略[#ここで割り注終わり]』(石見八重葎)。
岡熊
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