り、稍複雑な形貌を呈しつつ、一方は中島、行沢《なめざは》、一方は北郷、坂本、鶴巻田の間から、南方へ嚮を替へ、母袋《もたい》、粟生、下柳渡戸《こやなぎわたと》を経て、滝ノ上、鶴子からなほ南へ走る。そして遠く御所山《ごしよやま》(一名船形山)にその源を発するのである。
 丹生川くらゐの大きさになれば、いろいろの土地、事柄に関聯を持つやうになる。下柳渡戸から近い銀山は足利幕府時代、康正年間と伝へられ、長禄元年から五十年間ばかりは栄えた。今の薬師川が宝川といふ旧名を持つてゐるのはその繁盛を証明してゐる。それから一時廃山となつたが、慶長、元和に至つて再興し、寛永年間に至つて繁昌を極めた。寛永八九年ごろ其処の人口は二十万から三十万を算へたといふ記録が残つて居る。一日一人三合の割当にしてもなほ足らず、餓死する者が続出した程であつた。寛永十一年幕府の直営となり、十二年一時御留山(採掘禁止)となり、十八年から再許可となつたが、寛永も二十年を過ぎ正保元年頃から山が衰退の徴をあらはし、それから明治に至るまで幾多の消長を閲して今は全く廃山に帰してゐる。この銀山を流れる銀山川は丹生川の一支流をなし、下柳渡戸で入
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