》みつけば何の事はないのだが、一度もこれまで噛みつくことをしない。さうせば小蟻の勝になるだらう。さうして自分は暗々裏に小さい蟻の贔負《ひいき》をした。その贔負のうちにはただの贔負でない切実なものがあつたこと無論である。そのうち段々くらくなつて来て夕飯になつた。自分は夕飯を済ましてから、二たびこの蟻の闘《たたかひ》を見に来た。すると殆ど人目では見えなくなつた黄昏《たそがれ》の中に、二つの蟻が先程とさう違はない場処に、先程とさう違はない状態に、闘をつづけてゐた。
それから三年になつた。さうして自分は東京へ帰つて来た。自分は終戦の年の翌年一月三十日に金瓶村から大石田町に移つたが、三月はじめから肋膜炎《ろくまくえん》にかかり、実に苦しいおもひをした。病がやうやく癒《い》えたころ、程近い愛宕《あたご》神社まで散歩して蟻の歩いてゐるのを見る毎に、金瓶村、十右衛門裏庭での、大きい蟻と小さい蟻との闘《たたかひ》を想起するのであつた。一体あの後奴等の運命はどうなつたであらうか。往古にはダビデは巨漢ゴリアーテを僵《たふ》した話がある。ダビデは小、ゴリアーテは大であつた。けれどもそれは遠い過去世の物語で
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