ようといふのであつた。さうすると、四月此処に逃げて来る早々に、陸軍軍医学校が山形地方に疎開して来ることになり、上山町の旅館の大部分は軍医学校の病室となり、旅館の主人主婦女中などは職員といふことになつた。従つて旅館廃止といふことになつたので、自分が上山に疎開生活をすることは極めて不自由になつた。そこで金瓶《かなかめ》村斎藤十右衛門方に移居することになつたのである。十右衛門は自分の妹の嫁したところで、自分が生れた家の直ぐ上隣りになつて居る。右の如く、金瓶村は自分の生れた村で、自分は明治十五年生であり、明治廿九年上京したから、まる五十年ぶりで金瓶に二たび住むこととなつたわけである。村では遊び仲間の大部分は歿《ぼつ》して居たが、長生してゐたものも可なりあつた。自分の家に奉公したことのあるサヨといふ女などは九十二歳でまだ働いてゐた。

 十右衛門では自分を親切に取扱つて呉れたが、それでもいはゆる疎開者といふ者の寂しい生活をした。ここに来た時には、蔵王山《ざわうさん》は雪をいただいて真白であつたが、追々それも消えて夏になつた。警戒警報から空襲警報が発せられた。夜中に警戒警報が発せられると、十右衛門はじめ家人が起きて警戒して居るが、自分は御免をかうむつて寝てゐた。東京であのやうにひどい空襲を経験して来た後なので、金瓶に来て、何ともいへぬ心の安楽を感じてゐた。五月二十五日には、東京の病院も家も全焼してしまつた。自分の金瓶に行つたころは、村民が竹槍《たけやり》の稽古《けいこ》をしてゐた時分で、競馬場あとに村民が集まり、寺の住職などもそこで竹槍の稽古をした。それから、役場には手榴弾《しゆりうだん》の見本と称するものが二つ置かれてあつて、追々は国民全部に一つぐらゐづつ渡されるといふことであつた。沖繩戦が激烈になり、司令長官も陣歿したといふから、十右衛門の次男の大尉も当然陣歿したに相違ない。皆もさう信じて、十右衛門は葬式の用意などを為《し》はじめた。それから米空軍の編隊が蔵王山のやや西方の空を通つて、神町《じんまち》の飛行場を襲うたが、日本の飛行機は何一つ手出しが出来なかつた。それを現実に見た農民は、はじめて戦の結果を疑ふやうになつた。そのうち彼の強烈な釜石《かまいし》への艦砲射撃が行はれた。その音といふものは、まるで地軸をゑぐるといつたやうな強烈な音であつた。
 自分は不安のうちに時を過ごしたが、午後から夕にかけて蟻《あり》を見るのが楽しみで、いつもそれで気をまぎらせてゐた。蟻はよく戦をした。ある時かういふことがあつた。大きい蟻の足を小さい蟻が銜《くは》へてどうしても離さない。大きい蟻が怒つて車輪の如くに体をまはす、小さい蟻はそのままに廻《ま》はされ、埃を浴びて死んだやうになる。それでも銜へた大蟻の足を離さない。また大蟻がそのまま小さい蟻を牽《ひ》いて行かうとすると、さう容易には牽いて行かれない。大きい蟻は車輪の如くにまはす運動を繰返して小さい蟻を押潰《おしつぶ》さうとするが、小さい蟻はそれに任せて置いて、一時死んだやうになるが、死んでは居ない。そのうち大きい蟻が疲れて運動が鈍くなつて来た。それでも歩かうとする。さうなると今|迄《まで》死んだやうになつてゐた小さい蟻が、むくむくと動き出して、あべこべに大きい蟻を牽くやうな恰好《かつかう》をする。これは実におもしろい。実にすばらしい習性である。さう自分は心に思つて、夕飯まへまでそれを見つめて居た。そしてひよつとすると、これは小さい蟻の勝になるかも知れない。目下の形勢では小さい蟻に分がある。大きい蟻が小さい蟻を一気に噛《か》みつけば何の事はないのだが、一度もこれまで噛みつくことをしない。さうせば小蟻の勝になるだらう。さうして自分は暗々裏に小さい蟻の贔負《ひいき》をした。その贔負のうちにはただの贔負でない切実なものがあつたこと無論である。そのうち段々くらくなつて来て夕飯になつた。自分は夕飯を済ましてから、二たびこの蟻の闘《たたかひ》を見に来た。すると殆ど人目では見えなくなつた黄昏《たそがれ》の中に、二つの蟻が先程とさう違はない場処に、先程とさう違はない状態に、闘をつづけてゐた。

 それから三年になつた。さうして自分は東京へ帰つて来た。自分は終戦の年の翌年一月三十日に金瓶村から大石田町に移つたが、三月はじめから肋膜炎《ろくまくえん》にかかり、実に苦しいおもひをした。病がやうやく癒《い》えたころ、程近い愛宕《あたご》神社まで散歩して蟻の歩いてゐるのを見る毎に、金瓶村、十右衛門裏庭での、大きい蟻と小さい蟻との闘《たたかひ》を想起するのであつた。一体あの後奴等の運命はどうなつたであらうか。往古にはダビデは巨漢ゴリアーテを僵《たふ》した話がある。ダビデは小、ゴリアーテは大であつた。けれどもそれは遠い過去世の物語で
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