三筋町界隈
斎藤茂吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)日清《にっしん》戦役が

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)郷里|上《かみ》ノ山《やま》の

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(例)※[#「糸+褞のつくり」、第3水準1−90−18]袍《どてら》
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       一

 この追憶随筆は明治二十九年を起点とする四、五年に当るから、日清《にっしん》戦役が済んで遼東還附《りょうとうかんぷ》に関する問題が囂《かまびす》しく、また、東北三陸の大海嘯《だいかいしょう》があり、足尾銅山鉱毒事件があり、文壇では、森鴎外の『めさまし草』、与謝野鉄幹《よさのてっかん》の『東西南北』が出たころ、露伴の「雲の袖《そで》」、紅葉《こうよう》の「多情多恨」、柳浪《りゅうろう》の「今戸心中《いまどしんじゅう》」あたりが書かれた頃《ころ》に当るはずである。東京に鉄道馬車がはじめて出来て、浅草観音の境内には砂がき婆《ばあ》さんのいたころである。この砂がき婆さんは一目眇《すがめ》の小さな媼《おうな》であったが、五、六種の色の粉末を袋に持っていて人だかりの前で、祐天和尚《ゆうてんおしょう》だの、信田《しのだ》の森だの、安珍清姫だの、観世音霊験記だのを、物語をしながら上下左右自由自在に絵を描いて行く、白狐《びゃっこ》などは白い粉で尾のあたりからかいて、赤い舌などもちょっと見せ、しまいに黒い粉で眼を点ずる、不動明王の背負う火焔《かえん》などは、真紅な粉で盛りあげながら描くといったような具合で、少年の私は観世音に詣《もう》ずるごとに其処を立去りかねていたものである。その媼もいつのまにか見えなくなった、何時《いつ》ごろどういう病気で亡くなったか知る由もなく、また媼の芸当の後継《あとつぎ》もいず、類似のわざをする者も出ずにしまったから、あれはあれで絶えたことになる。その頃助手のようなものは一人も連れて来ずに、いつも媼ひとりでやって来ていた。またその粉末も砂がきとはいえ、砂でなくて饂飩粉《うどんこ》か何かであったのかも知れず、それにも一種の技術があって万遍なく色の交るように拵《こしら》えてあったのかも知れないが、実際どういうものであったか私にはよく分からぬ。また現在ああいうものが復興するにせよ、時代には敵《かな》わぬだろうから、あの成行きはあれはあれで好《よ》かったというものである。
 鉄道馬車も丁度そのころ出来た。蔵前《くらまえ》どおりを鉄道馬車が通るというので、女中に連れられて見に行ったことがある。目隠しをした二頭の馬が走ってゆくのは、レールの上を動く車台を引くので車房には客が乗っている。私が郷里で見た開化絵を目《ま》のあたり見るような気持であったが、そのころまでは東京にもレールの上を走る馬車はなかったものである。この馬車は電車の出来るまで続いたわけである。電車の出来たてに犬が轢《ひ》かれたり、つるみかけている猫が轢かれたりした光景をよく見たものであるが、鉄道馬車の場合にはそんな際《きわ》どい事故は起らぬのであった。

       二

 そういうわけで、私は数えどし十五のとき、郷里|上《かみ》ノ山《やま》の小学校を卒《お》え、陰暦の七月十七日、つまり盆の十七日の午前一時ごろ父に連れられて家を出た。父は大正十二年に七十三歳で歿《ぼっ》したから、逆算してみるに明治二十九年にはまだ四十六歳のさかりである。しかし父は若い時分ひどく働いたためもう腰が屈《まが》っていた。二人は徒歩で山形あたりはまだ暁の暗いうちに過ぎ、それから関山越えをした。その朝山形を出はずれてから持っていた提灯《ちょうちん》を消したように憶《おぼ》えている。
 関山峠はもうそのころは立派な街道《かいどう》でちっとも難渋しないけれど、峠の分水嶺を越えるころから私の足は疲れて来て歩行が捗《はかど》らない。広瀬川の上流に沿うて下るのだが、幾たびも幾たびも休んだ、父はそういう時には私に怪談をする。それは多く狐《きつね》を材料にしたもので父の実験したものか、または村の誰彼が実験したもののようにして話すので、ただの昔話でないように受取ることも出来る。しかしその怪談の中にはもう話してもらったのもあるし足の疲労の方が勝つものだから、だんだん利目《ききめ》がなくなって来るというような具合であった。ところがあたかもそのとき騎兵隊の演習戦があった。卒は黄の肋骨《ろっこつ》のついた軍服でズボンには黄の筋が入ってあり、士官は胸に黒い肋骨のある軍服でズボンには赤い筋が入っている。それを見たとき疲労も何も忘れてしまった。私は日清戦争の錦絵《にしきえ》は見ていても本物を見るのはその時が初めてであった。
 一隊は広瀬川の此岸《しがん》におり、敵らしい一隊は広瀬川の対岸の山かげあたりにいる。戦闘が近づくと当方隊の一部は馬から下りて広瀬川の岸に散開して鉄砲を打ちかけた。そうすると向うからも鉄砲の音が聞こえてくる。その音は私には何ともいえぬ緊張した音である。暫《しば》らく鉄砲を打っていたかとおもうと、当方の一隊は尽《ことごと》く抜剣し橋を渡って突撃した。父も私もこういう光景を見るのは生れてからはじめてであった。私の元気はこれを見たので回復して日の暮れに作並《さくなみ》温泉に著《つ》いた。その日の行程十五里ほどである。
 翌日仙台に著いて一泊し、東北での城下仙台に目のあたり来たことを感じ、旅館では最中《もなか》という菓子をはじめて食った。当時長兄が一年志願兵で第二師団に入営していたのに面会に行ったが機動演習で留守であった。そこで一日置いて朝仙台を発し、夜になって東京の上野駅に著いた。そして、世の中にこんな明るい夜が実際にあるものだろうかとおもった。数年を経て不夜城と言う言葉を覚えたが、その時も上野駅にはじめて著いたときの印象を逆におもい出したものであった。そのころの燈火は電燈よりも石油の洋燈《ラムプ》が多かったはずだのにそんなに明るく感じたものである。
 それから父と二人は二人乗の人力車《じんりきしゃ》で浅草区東|三筋町《みすじまち》五十四番地に行ったが、その間の町は上野駅のように明るくはなかった。やはり上ノ山ぐらいの暗いところが幾処もあって、少年の私の脳裡《のうり》には種々雑多な思いが流れていたはずである。さてその五十四番地には、養父斎藤紀一先生が浅草医院というのを開いていたので、其処《そこ》にたどりついたのである。
 医院はまだ宵の口なので、大きなラムプが部屋に吊《つ》りさげられてあって光は皎々《こうこう》と輝いていた。客間は八畳ぐらいだが紅《あか》い毛氈《もうせん》などが敷いてあって万事が別な世界である。また、最中という菓子も毎日のように食うことが出来る。
 ここに書いた陰暦七月十七日は陽暦にすれば何日になるだろうかと思って調べたことがある。それに拠《よ》ると旧の七月十七日は新の八月二十五日になるから、二十八日か二十九日かに東京に著いたことになる。

       三

 養父紀一先生はそのころ紀一郎といったが、紀一という文字は非常によいものだと漢学の出来る患家の一人がいったとかで紀一と改めたのである。父の開業していた、その浅草医院は、大学の先生の見離した病人が本復《ほんぷく》したなどという例も幾つかあって、父は浅草区内で流行医の一人になっていた。そして一つの専門に限局せずに、何でもやった。内科は無論、外科もやれば婦人科もやる、小児科もやれば耳鼻科もやるというので、夜半に引きつけた子供の患者などは幾たりも来た。そういう時には父は寝巻に※[#「糸+褞のつくり」、第3水準1−90−18]袍《どてら》のままで診察をする。私もそういう時には物珍しそうに起きて来て見ていると、ちょっとした手当で今まで人事不省になっていた孩児《がいじ》が泣き出す、もうこれでよいなどというと、母親が感謝して帰るというようなことは幾度となくあった。硝子《ガラス》を踏みつけた男が夜半に治を乞《こ》いに来て、それがなかなか除かれずに難儀したことなどもあった。咽《のど》に魚の骨を刺して来たのを妙な毛で作った器械で除いてやって患者の老人が涙をこぼして喜んだことなどもある。まだ喉頭鏡《こうとうきょう》などの発明がなかった頃であるから、余計に感謝されたわけである。
 今は医育機関が完備して、帝国大学の医学部か単科医科大学で医者を養成し、専門学校でさえもう低級だと論ずる向《むき》もあるくらいであるが、当時は内務省で医術開業試験を行ってそれに及第すれば医者になれたものである。
 そこで多くの青年が地方から上京して開業医のところで雑役をしながら医学の勉強をする。もし都合がつけば当時唯一の便利な医学校といってもよかった済生学舎に通って修学する。それが出来なければ基礎医学だけは独学をしてその前期の試験に合格すれば、今度は代診という格になって、実際患者の診察に従事しつつ、その済生学舎に通うというようなわけで、とにかく勉強次第で早くも医者になれるし、とうとう医者になりはぐったというのも出来ていた。
 当時の医学書生は、服装でも何かじゃらじゃらしていて、口には女のことを断たず、山田良叔先生の『蘭氏生理学生殖篇』を暗記などばかりしているというのだから、硬派の連中からは軽蔑《けいべつ》の眼を以《もっ》て見られた向もあったとおもうが、済生学舎の長谷川泰翁の人格がいつ知らず書生にも薫染していたものと見え、ここの書生からおもしろい人物が時々出た。
 ある時、陸軍系統といわれた成城学校の生徒の一隊が済生学舎を襲うということがあって、うちの書生などにも檄文《げきぶん》のようなものが廻《まわ》って来たことがあった。すると、うちの書生が二人ばかり棍棒《こんぼう》か何かを持って集まって行った。うちの書生の一人に堀というのがいて顔面神経の痲痺《まひ》していた男であったが、その男に私も附いて行ったことがある。すると切通《きりどおし》一帯の路地路地《ろじろじ》には済生学舎の書生で一ぱいになっていた。彼らは成城学校の生徒を逆撃しようと待ちかまえているところであった。これは本富士《もとふじ》署あたりの警戒のために未遂に終ったが、当時の医学書生というものの中には本質までじゃらじゃらでない者のいたことを証明しているのである。
 医学書生のやる学問は常に肉体に関することだから、どうしても全体の風貌《ふうぼう》が覚官的になって来るとおもうが、長谷川翁の晩年は仏学|即《すなわ》ち仏教経典の方に凝ったなどはなかなか面白いことでもあり、西洋学の東漸中、医学がその先駆をなした点からでも、医学書生の何処《どこ》かに西洋的なところがあったのかも知れない。著流《きなが》しのじゃらじゃらと、吉原《よしわら》遊里の出入などということも、看方《みかた》によっては西洋的な分子の変型であるかも知れないから、文化史家がもし細かく本質に立入って調べるような場合に、当時の医学書生の生活というものは興味ある対象ではなかろうかとおもうのである。
 また、医学の書生の中にも毫《すこし》も医学の勉強をせず、当時雑書を背負って廻っていた貸本屋の手から浪六《なみろく》もの、涙香《るいこう》もの等を借りて朝夕そればかり読んでいるというのもいた。私が少年にして露伴翁の「靄護精舎《あいごしょうじゃ》雑筆」などに取りつき得たのは、そういう医院書生の変り種の感化であった。
 そういう入りかわり立ちかわり来る書生を父は大概大目に見て、伸びるものは伸ばしても行った。その書生名簿録も今は焼けて知るよしもないが、既に病歿したものが幾人かいて、私の上京当時撮った写真にそのころの名残を辛うじてとどめるに過ぎない。

       四

 その頃、蔵前に煙突の太く高いのが一本立っていて、私は何処《どこ》を歩いていても、大体その煙突を目当《めあて》にして帰って来た。この煙突は間もなく二本になったが、一本の時にも煙を吐きながら突立っているさ
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