の生徒の一隊が済生学舎を襲うということがあって、うちの書生などにも檄文《げきぶん》のようなものが廻《まわ》って来たことがあった。すると、うちの書生が二人ばかり棍棒《こんぼう》か何かを持って集まって行った。うちの書生の一人に堀というのがいて顔面神経の痲痺《まひ》していた男であったが、その男に私も附いて行ったことがある。すると切通《きりどおし》一帯の路地路地《ろじろじ》には済生学舎の書生で一ぱいになっていた。彼らは成城学校の生徒を逆撃しようと待ちかまえているところであった。これは本富士《もとふじ》署あたりの警戒のために未遂に終ったが、当時の医学書生というものの中には本質までじゃらじゃらでない者のいたことを証明しているのである。
 医学書生のやる学問は常に肉体に関することだから、どうしても全体の風貌《ふうぼう》が覚官的になって来るとおもうが、長谷川翁の晩年は仏学|即《すなわ》ち仏教経典の方に凝ったなどはなかなか面白いことでもあり、西洋学の東漸中、医学がその先駆をなした点からでも、医学書生の何処《どこ》かに西洋的なところがあったのかも知れない。著流《きなが》しのじゃらじゃらと、吉原《よしわら》
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