りも石油の洋燈《ラムプ》が多かったはずだのにそんなに明るく感じたものである。
それから父と二人は二人乗の人力車《じんりきしゃ》で浅草区東|三筋町《みすじまち》五十四番地に行ったが、その間の町は上野駅のように明るくはなかった。やはり上ノ山ぐらいの暗いところが幾処もあって、少年の私の脳裡《のうり》には種々雑多な思いが流れていたはずである。さてその五十四番地には、養父斎藤紀一先生が浅草医院というのを開いていたので、其処《そこ》にたどりついたのである。
医院はまだ宵の口なので、大きなラムプが部屋に吊《つ》りさげられてあって光は皎々《こうこう》と輝いていた。客間は八畳ぐらいだが紅《あか》い毛氈《もうせん》などが敷いてあって万事が別な世界である。また、最中という菓子も毎日のように食うことが出来る。
ここに書いた陰暦七月十七日は陽暦にすれば何日になるだろうかと思って調べたことがある。それに拠《よ》ると旧の七月十七日は新の八月二十五日になるから、二十八日か二十九日かに東京に著いたことになる。
三
養父紀一先生はそのころ紀一郎といったが、紀一という文字は非常によいものだと漢学の
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