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このパノラマは上野公園には上野戦争がかいてあったが、これは浅草公園のものほど度々《たびたび》は見ずにしまった。そのころ仲見世《なかみせ》に勧工場《かんこうば》があって、ナポレオン一世、ビスマルク、ワシントン、モルトケ、ナポレオン三世というような写真を売っていた。これらの写真は、私が未だ郷里にいたとき、小学校の校長が東京土産に買って来て児童に見せ見せしたものであるから、私は小遣銭が溜《た》まると此処に来てその英雄の写真を買いあつめた。
そういう英雄豪傑の写真に交って、ぽん太の写真が三、四種類あり、洗い髪で指を頬《ほお》のところに当てたのもあれば、桃割に結ったのもあり、口紅の濃く影《うつ》っているのもあった。私は世には実に美しい女もいればいるものだと思い、それが折にふれて意識のうえに浮きあがって来るのであった。ぽん太はそのころ天下の名妓《めいぎ》として名が高く、それから鹿島屋清兵衛さんに引かされるということで切《しき》りに噂《うわさ》に上った頃の話である。
そのうち私は中学を卒業し、高等学校から大学に進んだころ、鹿島氏は本郷《ほんごう》三丁目の交叉《こうさ》点に近く住んでいるということを聞き、また写真屋を開業していて薬が爆発して火傷《やけど》をしたというような記事が新聞に載り、その記事のうちに従属的に織交《おりま》ぜられて初代ぽん太鹿島ゑ津子の名が見えていたことがあった。また、父の経営した青山脳病院では毎月患者の慰安会というものを催し、次ぎから次と変った芸人が出入したが、ある時鹿島ゑ津子さんがほかの芸人のあいまに踊を舞ったことがある。父がそのとき「なるほどまだいい女だねえ」などといって、私は父の袖を引張ったことがある。私のつもりではそんな大きい声を出しなさるなというつもりであった。遠くで細部はよく見えなかったが人生を閲《けみ》して来た味《あじわ》いが美貌のうちに沈んでしまって実に何ともいえぬ顔のようであった。私が少年にして浅草で見た写真よりもまだまだ美しい、もっと切実な、奥ふかいものであった。私は後にも前にもただ一度ぽん太を見たということになるのであるが、この注意も上京当時写真で見たぽん太の面影が視野の外に全くは脱逸していなかったためである。私はその時のことを「かなしかる初代ぽん太も古妻《ふりづま》の舞ふ行く春のよるのともしび」という一首に咏《よ》んだ。私のご
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