を食う気がしなかった。鰻丼《うなどん》なども上等なもてなしの一つで、半分残すのが礼儀のような時代であったところを思うと、養殖が盛になったために吾々《われわれ》はありがたい世に生きているわけである。
六
そのころ奠都《てんと》祭というものがあって式場は多分|日比谷《ひびや》だったようにおもう。紅い袴《はかま》を穿《は》いた少女の一群を見て非常に美しく思ったことがある。それから間もなく女学生が紅い袴を穿き、ついで蝦茶《えびちゃ》の袴がある期間流行して、どのくらい青年の心を牽《ひき》つけたか知れぬが、そのころはまだそれが、なかった。
東三筋町に近い、鳥越《とりごえ》町に渡辺省亭《わたなべせいてい》画伯が住んでおられて、令嬢は人力車でお茶の水の女学校に通った。その時は髪を桃割《ももわれ》に結って蝦茶の袴は未だ穿いていなかったから私はよくおぼえている。俳人渡辺|水巴《すいは》氏は省亭画伯の令息で、正月のカルタ遊びなどにはよく来られたものである。もう夢のような追憶であるからおぼつかない点もあるが、水巴は俳人、茂吉は歌人となったわけである。
黒川|真頼《まより》翁も具合の悪いときには父の治療を受けた。晩年の真頼翁はもう頭の毛をつるつるに剃《そ》っておられた。体が癢《かゆ》くて困るといわれてうちの代診の工夫で硫黄《いおう》の風呂《ふろ》を立てたこともあり、最上《もがみ》高湯の湯花を用いたことなどもあった。いまだ少年であった私が縦《たと》い翁と直接話を交《かわ》すことが出来なくとも、一代の碩学《せきがく》の風貌《ふうぼう》を覗《のぞ》き見するだけでも大きい感化であった。そのころの開業医と患家とのあいだには、そのような親しみもあり徳分もあったものである。しかし父も精神科専門になってからはそういう患家との親しみは失《う》せた。このことには実に微妙なる関係があって、父は、「感謝せらるる医者」から「感謝せられざる医者」に転じたわけである。精神病医者というものは、患者は無論患者の家族からも感謝せられざる医者である。
私は東京に来て、浅草三筋町において春機発動期に入った。当時は映画などは無論なく、寄席にも芝居にも行かず、勧学の文にある、「書中女あり顔玉のごとし」などということが沁《し》み込んでいるのだから、今どきの少年の心理などよりはまだまだ刺戟《しげき》も少く万事が単
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