く。僕は井上通泰さんのやうに、結句は三四調であるべきだなどとは云はんが、今度の歌の結句の四三調には肯んじがたいのがある。われ等の祖先の作に、『雲たちわたる』とか、『打ちてしやまむ』とか、『のどには死なじ』などの遒勁流轉の結句があるのに、君の歌のはなぜさう行かないのであらうか。
 クールベのエトルダの斷岩のやうな、海波圖のやうな、ロダンの考へる人のやうな、レムブラントの自畫像のやうな、ああいふところに目を据ゑたこともあるが、力及ばずに了つてしまつて、今おもふと恥かしい事がある。それゆゑ僕はこれを同志に望んでゐる。同志に望むのは一番自然だと思ふからである。君はさう思はないか。
 僕は今二軒長屋のせまいところに住んでゐて、夜になると、來訪者のないときははやく床をのべてその中にもぐつて芭蕉や、「高瀬舟」などを讀んでゐる。壁一重の向う長屋には二夫婦がゐて、若夫婦が二階に寢てゐる。寢がへりするのも手にとるやうにきこえる。寂しい生活をしてゐると、官能が鋭敏で鈍麻はしない。かういふときには芭蕉のものは割合にわかる。君のやうに性欲の淡い、僧侶のやうな生活を實行してゐる人が、なぜこんどの歌のやうにさうざう
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