であった。私は計らずも故正岡先生と呉先生との精神上芸術上のこの交渉を見|出《いだ》して、不思議な因縁のつらなりに感動したのであったことを今想起する。
 呉先生の欧洲留学に出掛けられたときの諸名家の送別の詩歌帖《しいかちょう》を私は一度先生の御宅で拝見した。それは長風万里と題した帖であって、その中に正岡先生の自筆俳句がある。「瓜《うり》茄子《なすび》命があらば三年目」というのである。正岡先生はこの時既に病の篤《あつ》いのを知っておられた。三年の後呉先生の帰朝されて再たび面会された時、相互のその喜びその憂い誠に如何《いかが》であったろうか想像に余りあることである。
 私がいまだ少年で神田淡路町の東京府開成中学校に通っているころである。多分その学校の四級生〈今の二年生〉ぐらいであっただろうか。学校の課程が済むと、小川町どおりから、神保町どおりを経て、九段近くまでの古本屋をのぞくのが楽しみで、日の暮れがたに浅草|三筋町《みすじまち》の家に帰るのであった。ある日小川町通の古本屋で『精神啓微』と題簽《だいせん》した書物を買って、めずらしそうにひろい読みしたことを今想起する。その古本屋は今は西洋|鞄
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