が紅《あか》鉛筆で標《しるし》を打ってある文章の一つに、「精神的養生ト云ヘルモ亦《また》然《しか》リ。整然タル休養ヲナシツツ絶エズ習練スルコト最モ須要《しゅよう》ナリ。知覚ノ能ハ実歴親験ノ重ナルニ随《したが》ヒテ長ジ、記憶ノ能ハ同一ノ観像ヲ屡《しばしば》反復スルニヨリテ長ジ、弁別ノ能ハ原因結果ノ比較ヲ屡スルニヨリテ長ズ。他ノ高等精神作用亦皆習練ニヨリテ育成セラルルコト此《これ》ニ同キモノナリ」というのがある。此《かく》の如く呉先生の著書の幾通が偶然か否か私の手に入ったためか、その頃まだ少年であった私が未見の呉先生に対する一種の敬慕の心は後年私が和歌を作るようになって、正岡子規先生の著書を何くれとなく集め出した頃の敬慕の心と似ているような気がする。私の中学校の同窓に橋健行君がいて、橋君が私よりも二年はやく呉先生の門に入ったということも、私に取りては極めて意味の深いことである。
 明治三十五年の秋頃か、明治三十六年の春のころかに、第一高等学校の前庭で故第一高等学校教師プッチール氏 Fritz Putzier(1851−1901)の胸像除幕式が行われた。その時第三部一年生であった私がおおぜいの生徒らの後ろの方に立って、式の行われるのを見ていた。独逸《ドイツ》公使伯爵ワルライ氏 Von Arco Valley〈明治三十四年から明治三十九年まで独逸公使であった〉の演説があり、当時の第一高等学校独逸語教師メンゲ氏 Menge の演説があり、第三部三年生からは片山久寿頼氏、二年生からは関口蕃樹氏などが、生徒代表者として出て、何か言ったのであったが、独逸公使の次に額ひろく、眼光鋭く、鬚《ひげ》が豊かで、後年写真版で見たニイチェの鬚のような鬚をもったひとりの学者が、プッチール氏から教を受けた人々の総代として独逸語で演説された。私のそばにいた三年生のひとりが、「あれは呉博士である」とおしえてくれた。『精神啓微』『人身生理学』『人体ノ形質生理及ビ将護』などの著者を私はその時はじめて目《ま》のあたり見たのであった。そして私は目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》ってふかいなつかしい一種の感動をもって瞬時も免《のが》すまいとしてその人を見たのであった。
 明治三十九年七月はじめから法医学教室の講堂で先生の心理学講義があって、七月十一日に終了した。その時私ははじめて先生の講義を
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