であった。私は計らずも故正岡先生と呉先生との精神上芸術上のこの交渉を見|出《いだ》して、不思議な因縁のつらなりに感動したのであったことを今想起する。
 呉先生の欧洲留学に出掛けられたときの諸名家の送別の詩歌帖《しいかちょう》を私は一度先生の御宅で拝見した。それは長風万里と題した帖であって、その中に正岡先生の自筆俳句がある。「瓜《うり》茄子《なすび》命があらば三年目」というのである。正岡先生はこの時既に病の篤《あつ》いのを知っておられた。三年の後呉先生の帰朝されて再たび面会された時、相互のその喜びその憂い誠に如何《いかが》であったろうか想像に余りあることである。
 私がいまだ少年で神田淡路町の東京府開成中学校に通っているころである。多分その学校の四級生〈今の二年生〉ぐらいであっただろうか。学校の課程が済むと、小川町どおりから、神保町どおりを経て、九段近くまでの古本屋をのぞくのが楽しみで、日の暮れがたに浅草|三筋町《みすじまち》の家に帰るのであった。ある日小川町通の古本屋で『精神啓微』と題簽《だいせん》した書物を買って、めずらしそうにひろい読みしたことを今想起する。その古本屋は今は西洋|鞄鋪《かばん》(旅行用鞄製造販売)になり、その隣は薬湯(人参実母散薬湯稲川楼)になっている。『精神啓微』は呉先生がいまだ大学生であったころに書かれたもので、初版は明治二十二年九月廿日の刊行である。その後私が第一高等学校の学生になった時、本郷のある書鋪で、『精神啓微』の第二版を求め得た。第二版は明治二十三年十月十日の刊行で、表紙の字が初版よりも少し細くなっており、巻末に世評一般がのせてあって、その中には『国民の友』記者の評に対する森林太郎先生の弁駁《べんばく》文などもある。
『精神啓微』は脳髄生理から出発して形而上学の諸問題に触れ精神の本態に言及されたものであるが、「万象ヲ鑒識《かんしき》スルノ興奮ハ視官ニ於テ最盛ナリ。光線ノ発射ト色沢ノ映昭トハ吾人《ごじん》ノ終身求メテ已《や》マザル所ナリ。耳モ亦《また》之《これ》ニ同ク、響ト音トハ其常ニ欲スル所タリ。光ヲシテ絶無ナラシメバ聴覚ノ困弊果シテ如何《いかん》。天地皆暗ク満目|冥冥《めいめい》タラバ眼ナキト別ツベキナク、万物|尽《ことごとく》静ニシテ千里|蕭条《しょうじょう》タラバ耳ナキト別ツベキナシ。何ヲ以テ吾人ノ心情ヲ慰スルニ足ランヤ」とい
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