で、「うそをつけ。一つ試めして、からかつてやらう」と、いきなりこの僭越至極なレストランのドアに手を掛けて飛込んだといふことは確に想像されていゝ。
岩村さんは名家の出で、豁達で、皮肉で、隨分口も惡かつた。それでゐて世話好きで、親切氣があつて、いつでも人を率ゐてゆく勝れた天分があつた。
龍土軒の女將は後になつてわたくしにこんなことを云つて聞かせた。「岩村さんはほんとに氣さくで面白いお方と思つてをります。でも始めて宅の店へお出くださつた時は、御冗談だとは思ひましても、どんなにか腹を立てましたことやら。何しろかうでしよう。お迎へするとだしぬけに、お前のところは佛蘭西料理ださうだが、をかしいね、三聯隊の近所だから多分兵食だらうつて、かうおつしやるぢやありませんか。それではどの邊の御注文にいたしましようかとおたづねしますと、さうだな、どうせ兵食なら一番下等がよからうつて、どこまでも店を見縊つておいでゝすから、わたくしも餘りのことにむしやくしやして、料理場で主人にさう申しますと、主人もあの氣性で大層つむじを曲げましたが、店としてはどなたに限らず大切なお客樣といふことに變りはありませんから、思ひ直して、大奮發いたしましてこゝぞと腕をふるつた皿を默つて差上げますと、今度はどうでしよう。それがすつかりお氣に召して、それからこつちといふもの、色々とお引立に預りました」と、かう云つたのである。
この龍土軒の主人といふのがまた風變りの人物であつた。少し耳が遠かつた。自信の強い男で、自分を料理の天才とまで思ひつめたところが見えてゐた。メニユウの端に漢文くづしの恐ろしくむづかしい文字を列べて、日本人の口に適せぬ西洋料理は到底何等の効果をも收め難いものである。日本人の口に適するやうに心掛くると共に、正式の西洋料理たることを忘れてゐてはいけない。庖丁の妙技はそこにあるのだと、かう云ふやうな意味のことが自讚してあつた。主人のつもりでは、佛蘭西料理こそ日本人の口に適し、しかもそれが正式の西洋料理であることを云はうとしたものであらう。これは代筆でなく主人自作の文章であるといふことであつた。何かにつけて特色を出さうとする側の人物であつた。
こゝの食堂の部屋は十疊と八疊ぐらゐの二間ぎりで、會合のをりは自然貸切のすがたであつた。一方の壁には當時流行であつた刀の古鍔の蒐集が垂撥のやうな板に上から下へかけられて、それが二列になつてゐる。その傍には能樂の面も見え、がつしりした飾棚が適當に配置されてゐる。他方には煖爐があり、入口の側には名士寄書きの屏風が立てゝある。更に上部の壁面には岡田さんの描いた主人の肖像と、小代さんの白馬會初期の風景畫が光彩を添へてゐる。かういふやうな體たらくで、調度や裝飾品が狹い部屋をいよいよ狹くしてゐた。この部屋はもともと日本室を直したものと見えて、天井が低かつたが、ごてごてしてゐたものゝ、どこかしつくりした空氣が漂つてゐて、居心地はわるくなかつた。
鎌倉から出て來た國木田君もいつしかこの店の贔負の客となつて、青山に墓參の歸り途には必ず家族を連れて立寄るといふことになつてゐた。我々の會合もその勢に押された擧句こゝに持出されたが、依然として無名の會であつたことが不滿足に思はれて、皆で相談の結果「凡骨會」として一會を催したことがある。龍土軒主人はこれをよろこんで、會日にはわざわざ獻立表を會員の數だけ印刷して置いたものである。その獻立表を見れば、はつきり明治三十七年十一月二十二日晩餐としるされてある。然し會名が「風骨會」と變つてゐたので大笑ひをした。風字は凡字の誤植であつたらうが、考へて見れば寧ろこの方が佳名であつた。
この會名の骨字から思ひついたのでもあらうが、獻立がまた振ひすぎてゐた。「尾崎紅葉の墓」といふのが表に見えてゐる。何のことか全く見當もつけかねたが、出された料理には一同が惘れてしまつた。第一食べ方からして分らない。一寸ばかりに切つた牛の骨が皿の中央に轉つて、それに燒パンの一片と竹篦が添つてゐる。主人の説明によれば、竹篦は卒堵婆に擬へたものであり、それを使つて、骨の膸を抉り出して、燒パンに塗つて食べるのだといふことである。これは餘りにもデカダン趣味に墮した嫌ひがあつたといふよりも、主人のふざけ方がちとあくどかつた。紅葉山人はその前年に歿してゐて、こゝは山人の墓域に程遠からぬところである。骨の膸をトオストに塗つて食べるだけならば、それは食通のよろこびさうな乙なものであるにちがひない。しかるにこの始末で、會衆はしたゝか辟易したのである。
たまたまそんな事柄があつたために大略分ることではあるが、凡骨會がいよいよ龍土會と改まつて一段と生長したのは翌三十八年の新春であつたらう。國木田君の畫報社關係からは小杉、滿谷、窪田、吉江、其他の顏も見えたが
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