、武林、小山内、中澤、平塚の諸君は、すでにその前から會盟に加つてゐただらうと思はれる。論客としての岩野君を迎へたのもその頃であつたらう。拔打に對手に懸つてゆくあの無遠慮な遣り口が岩野君の身上であつた。あの眞似は一寸出來にくい。岩野君の唱道した刹那的燃燒の肉靈合致説は解り難かつたが、それをそのまゝ一々身邊に實行して見せたのである。それに對しては誰もその善惡は云はれないのである。岩野君は肉靈の合致と云つて、決して一如とは云はなかつた。一如とか淨化とか云ふことは通途の宗教の爲すところである。合致とは肉が直ちに靈に食ひ入ることである。別言すれば肉が靈に依憑する状態から現實の實踐が行はれることである。それは無意識の本能ではありえない。悲痛の肉である。かの無智の巫女における神憑りとは全く反對のものである。岩野君はこゝで一種の主觀主義を建立したが、それは矢張東洋哲理の系列を飛躍するものでもなく、恐らくはその源泉を天臺に掬んだものであらう。
わたくしは岩野君の説について思はず談義を試みて、ふと氣がついて、今は後悔してゐるところである。岩野君一人がそんなに威張つて會を壓倒してゐたやうに見られる虞がないでもないからである。當時の大勢は自然主義に歸してゐた。岩野君とても自然主義を必ずしも排するものではなかつた。ただその無技巧の暴露的描寫を論ずるだけでは不徹底だと突込んでゐたのである。そんな風に勝手に論議が行はれたと云つても、會の席上では、食卓を同うするが如く相互に共感する餘裕を失はなかつたから、論議とは云へ、それは一の談笑に過ぎなかつた。
會は大抵夕景の五時頃に開かれて深夜に及んだ。その間興に乘じて、生田君や平塚君が自慢で新詩の獨唱をやつたこともあり、さういふ折には若菜集の醉歌などがよく歌はれたし、武林君が一度杜牧の江南春を思ひきり聲を張りあげて吟誦したこともあつた。龍土軒主人もまたはしやいで、珍らしい洋酒をリキユウグラスに注ぎ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて、それを寄附するといふのである。いつであつたか、蝮蛇酒といふのをすゝめられたことがある。茴香のにほひの高かつたことをいまだにおぼえてゐる。
そのうちに會はまた白鳥、葉舟、江東、秋骨の諸君を容れて急に脹らんできた。西本、柴田兩君の出席も殆ど同時期であつたやうに思はれる。龍土會の名が廣く知れわたると共に、この會が文界
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