ないからである。現実との矛盾は避けられない。芸術家はそういう矛盾の空気を吸って、息張って、内心の苦闘を重ねる。諦めが来る。そして中庸が説かれ、平常心が語られ、空想が抑制され、節度が守られる。鴎外はそれらの諸徳を一身に集めていたように、或る時は信じていたでもあろうが、それもまたあの端倪《たんげい》すべからざるあそび[#「あそび」に傍点]の変貌であったに違いない。
鶴見はそういう見方を取ることによって、鴎外のうちに光明面とは反対に悪魔的の半面を見出そうとしているのである。
鴎外は努めてアポロ的であらんことを期していた。それゆえにディオニソスの祭の招きに応ずることを嫌ってもいた。しかるにそれは外見上のことである。鴎外の生活の基調をなすものは、空想に対する異常な恐怖であったろう。空想には思想の悪魔性と物慾の逸楽性との誘惑が伴う。鴎外はそれを明らかに認めて、恐れていたのではなかろうか。
フロオベルといろいろの点で似たところが鴎外にある。鶴見は人間の内心に宿る悪魔性の問題に関聯してそんなことを考えているのである。両者とも医者の家に生れたこと、一生職業的文芸家とならなかったこと、そこらあたりは似たといえばよく似ている。境遇からいえば、鴎外の方は官制に縛られていて窮屈であったが、フロオベルは自由の身であった。そこが違う。フロオベルは現実と空想との闘いを極端まで押詰めた。その現実は信を失った物慾世界の盲目的展開である。そこには光明は期待されない。フロオベルはその光明をむしろ空想の悪魔性のうちに見つけようとしていた。そこがまた鴎外とちがう。しかし両者の行き方が全く違っているとは思われない。フロオベルはそれを交互に大きな文学として公にした。
鴎外はフロオベルから『三閑話』の中の一つである聖ジュリアンの物語を選んで翻訳した。翻訳は見事な出来栄えである。鶴見は鴎外の許多《あまた》の翻訳中でその物語をこの上なく愛誦《あいしょう》している。聖ジュリアン物語は悪魔の誘惑を書き綴ったものである。ジュリアンは身を落して渡守《わたしもり》になり、癩者《らいしゃ》を渡して、偉大なる空想の天に救い上げられるのである。
鴎外はなぜその物語を翻訳したか。それを問うて見たいのである。鴎外が亡くなってから今年で二十五年になる。鶴見の問に答えるものは最早《もはや》鴎外の遺著より外にない。
鶴見は一先ずここらで考を打切ることにした。そしてうつろな目で外の景色を眺めていた。
蝉が鳴いているという。庭木にはまだ移って来ない。山の森で鳴いているのだという。耳しいた鶴見にはそれがわびしい。森に埋まった丘陵の青緑は反射する日光を映発して金色を彩《いろど》っている。鶴見はその鮮やかな金色の中から鳴く蝉の一声を絞り取ろうとして、ひたすらに聞きすましている。
[#天から3字下げ]すべな すべな 耳しひをぢが ふつ ふつと 聞えぬ蝉に ほほけ言いふ
[#改ページ]
竜宮小僧
輪廻《りんね》思想には動物が必然に随伴する。植物はそれに与《あずか》らない。人間が植物に変形するといわれても、それは輪廻世界においてのことではない。植物には能動的な行為がないからである。植物は種子を留めぬ限り、同じ生物でも強い個性を持たぬだけに自然の元素に分解されやすい。動物には妄執がある。特に錯綜した妄念によって繋がれているのが人間である。人間はそこに罪深くも思想として迷妄世界を建立する。嗔恚《しんい》と悔恨とが苛責《かしゃく》の牙《きば》を噛む。
人間の霊はその迷妄世界をさまよって、形なきところに形を求める。その形象は妄執に相応する動物として示されねばならない。暗黒の中の光明、苦悩を蝉脱《せんだつ》する献身も、やがてそこから生ぜねばならない。
鶴見の動物観は人間を輪廻の一環と見做《みな》している。人間の霊が永遠の女性に導かれて昇天するよりも、永遠の輪廻の途を輾転《てんてん》するのが順当だと思っているのである。迷妄の中で仏縁にあずかりたいのである。地上の夢の深刻さは味いつくし難いものがある。初はあろうが終はないものである。
鶴見はそんな事を考えていて肩荷を重くした。それを緩《ゆる》めようとして、思量を植物に転じた。石蒜《せきさん》のことから鴎外を引き合いに出した。そして放肆《ほうし》な考察はいつしか鴎外の文学の芸術性にまで及んだ。鶴見はいまさらのように、はてしない空想の飛躍におどろいている。しかしまたかれは自己の空想の放散を快く思っていぬのでもない。
植物のことが頭の中を一杯に占めている。植物にも動物の爪が生えているのではなかろうか。頭の中がその爪でむやみにひっ掻き廻わされているような刺戟を感ずる。
鶴見は単に植物を観賞しようというのではない。かれの考はその伝来と実用性との関係を
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