伝って、それなりに文壇を遠退《とおの》いてしまった。傍目《はため》にはそうまでしなくてもよさそうに思われたに違いない。反抗が嫌《いや》なら嫌で、もっと落《お》ち著《つ》いていればよかったろうと思われたに違いない。暴風も一過すれば必ず収まるものである。かれはそれを知らぬでもなかったが、そういう心構《こころがまえ》をするだけの多少の気力も、体力と共に失われていて、かれにはその時頼みにする何物もなかったからである。
実を言えば、鶴見は結婚後重患にかかり、その打撃から十分に癒《いや》されていなかったのである。そればかりか、病余の衰弱はかれの神経を過度に昂《たか》ぶらせた。しばしば迷眩《めいげん》を感ずるようになったのは、それからのことである。そういう状態が一進一退して、長いことかれを苦しめ抜いた。その間《かん》にあってかれの生活も思想もおのずから変って来た。ひとしきり憂鬱になって、気まぐれにも自殺についての考察をめぐらして見たり、またその頃はやった郊外生活を実行して、煩《うる》さい都会を避けて田園を楽しむような気振《けぶり》を見せたりして、そんなことを少しずつ書いたりしてもいた。
鶴見の逃避生活はそういう風にして始められた。神経を痛める細字の書は悉《ことごと》く取りかたづけられて、読書人の日々の課業として仏典が択《えら》ばれた。かれは少年時より仏教については関心を持っていた。その志を今果そうとしているのである。他《ひと》がもしヂレッタントだといって卑しめればかれは腹を立てただろうが、かれみずからはどうかすると、おれはヂレッタントだといって笑っていた。そういう時のかれには職業的文士というものが何物よりも目障《めざわり》になっていたのである。
詩作にはすでに興味を失っていた。かれ自身としても詩人になろうと思いたったのが間違いのはじめで、詩だけを思うままに作っていればよかったのだと、老年になったかれはしきりに悔《くや》んでいる。その上に他と一しょになって物を言うのをひどく忌《い》むのである。詩社を結ぶなんぞということは、てんでかれの頭にない。一生涯孤立は避けられもせず、また避けようとも思わずに、別にしでかしたこともなく、ずるずると今日に及んだのである。これが鶴見の経歴といえば経歴のようなものである。
それに、これは余談であるが、鶴見は十年ばかり前から聾《つんぼ》になっている。単に耳が遠いというだけではない。殆ど全く聞えないのである。
鶴見が聾になる直《す》ぐ前のことであった。かれは老妻の曾乃《その》に向って、「お前はどうかしたのかね。声がすっかり変ってぼやけてしまっている。もっとはっきり物をいってもよさそうなものだ」といって、かえって訝《いぶ》かったものであるが、或る日の朝いつものとおり起きて、茶の間の席に就いていると、家人のする朝の挨拶がさっぱり聞えて来ない。鶴見はこのときはじめて自分の聴覚不能に気が附いたのである。
かれは久しく悩まされている体の変調子などから、いずれはどこかに現証を見せられるものと推量していた。それが聴覚にあらわれて来たのである。ふだんからそう考えていたので、その朝争われぬ証拠を見せつけられても、惶《あわ》てもせず驚きもしなかった。びっくりしたのはむしろ曾乃刀自の方である。いろいろ他にも相談したすえに、結局市の聾唖《ろうあ》学校へ行って、聴音器などのことをよく聞きただして来ることに極《き》まった。鶴見は例によって学校なんぞへ行くのをおっくうがって、あまり気がすすまない。しかしそうばかりもいっていられぬので、曾乃刀自に跟《つ》いて学校へ出向いてみた。
学校では若い教諭が出て来て親切にしてくれる。一応こちらの事情を聞いた上で、ガラス戸棚からさまざまな器具を取りおろして、それを卓上に列《なら》べて、それらの器具の使用法について詳しい説明をする。その中には乾電池を使った、機巧の複雑なものもある。しかし実際に試《た》めしてみたところでは、そんな贅沢《ぜいたく》な器具よりも、簡単で自然なものの方が要領を得ていた。鶴見は学校へ行ってそれだけの智識を貰《もら》って来たのである。それから東京へ出掛けて、学校で見たものと同じ物を買入れて来た。喇叭状《らっぱじょう》の聴音器である。鶴見はその喇叭をかれこれ十年も使っているので、表にかけた黒漆《くろうるし》も剥《は》げてところ斑《まだら》に地金《じがね》の真鍮が顔を出している。その器具を耳にあてがってみても、実は不充分である。言葉のうちには幾度も聞き返さねば分らぬ音韻がある。大抵の日常会話は、慣れてくれば、よくは聞えなくても想像がつく。話題が突然一転する。そうなると想像の糸がふっつりと断たれて殆ど判別が出来なくなる。客と対座するときには曾乃刀自が脇についていて、喇叭を通して、仲
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