た。この石はそこの村での或る信仰の対象物であったらしい。そう思って庭師にその事を訊《ただ》してみたが、庭師は夢にも知らぬといった。
 それはそれとして、据えられた大石を翌日になってじっと眺めていると、どうであろう。蜥蜴が一|疋《ぴき》、その岩の面を昇ったり降りたりしている。それが前からの遊びどころででもあったかのように、いかにも自適している。
 一体鶴見には偏好性があって、虫類では蜥蜴が第一、それから守宮《やもり》、蟷螂《かまきり》という順序である。静岡に住んでいた間は、それらの三者に殊に親しさを感じていた。
 前の歌はそんなわけで、そんな折によんだのである。

 濡縁に這い出した蜥蜴は日光を浴びて忽ちに現われ、また忽ちにして眼の前より隠れ去った。夢のような輪廻観に耽《ふけ》っていた折からでもあり、そこへあしらいに来たかと思われる蜥蜴を、鶴見はいよいよ親しいものにしている。そして朝目の好い徴として、この上もなく悦《よろこ》んでいる。
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  探求と観相



 鶴見はぐったりしている。
 あまり坐りつづけたので少し気を励ますために庭に出てみた。梅雨時《つゆどき》を繁りはびこる雑草は今のうちに※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》って置く方が好い。それがまた適当な仕事のように思われたからである。※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]るといっても大半は鎌を使わねばならない。庭はそれほど荒れているのだ。それで二日もやっていると、鎌を持つ右の手の薬指の附根に肉刺《まめ》をこしらえてしまった。
 鶴見は元来若い時には老父の手助けになって、庭の整理ならかれこれと何でもやって来たので、大抵の事には心得がある。伐《き》りおろした樫《かし》の枝を鉈《なた》でこなして薪《まき》に束ねる。そういうこともよくしていた。
 秋のすえである。打ち込む鉈の下から樫の枝が裂ける。痛い血を流すかわりに、樫の生木《なまき》はその裂け目から一種強烈な香気を放散する。それは強くはあるが、またどこやら仄《ほの》かなところがあり、人を深みに誘い込むような匂である。自然の生命は樹木の枝々の端までも通っている。それを悟らせるための匂であるように思われる。鶴見はそんなことをその時しみじみと感じた。
 鶴見に取っては、庭は自分の体とそう違ったものではない。樹木の枝は彼の四肢《しし》であり、指先きである。役にも立たぬ雑草は彼の妄想でもあろう。そういう感じは年老いた今日までもまだ変っていない。
 鶴見は鎌を揮いながらさまざまな匂を嗅いだ。どんな草にもそれ相応の特色がある。同じ青臭さのうちにも一つ一つ違いがある。折から白い花を咲かせているどくだみ[#「どくだみ」に傍点]は、その根を引き抜くとき、麝香《じゃこう》のような、執念ぶかい烈しい薫《かおり》を漲《みなぎ》らす。嗅神経がこれを迎えて、遑《あわ》てていよいよ緊張する。鶴見はそれをあたかも幼馴染《おさななじみ》が齎らして来たもののように懐かしむのである。

 話が一度どくだみ[#「どくだみ」に傍点]の事になると、鶴見にはいつでも喚起される聯想《れんそう》のひとつがある。石川啄木に関することである。中央の詩界に華々しい初見参《ういげんざん》をした上に、なおも暫く活動をつづけていたが、やがてまた寂しく故郷の盛岡へ帰って行った直《す》ぐ後のことである。当時鶴見はどくだみ[#「どくだみ」に傍点]の詩を作って或る雑誌に寄稿した。啄木はその詩を読んだといって端書を一本送って来た。端書にはこういうことが書いてある。君はどくだみ[#「どくだみ」に傍点]に白い花が咲いて、それが四弁だと数えているが、あれは植物学上、実は萼片《がくへん》に当るもので、花びらではないというのである。それだけのことを注意するためにわざわざ端書をよこした。鶴見は御苦労なことと思っただけでそれなりにしておいた。今になって考えて見れば啄木もその頃既に変った風格を具えた人間であった。あの矯飾していたような中に生一本《きいっぽん》な気質を蔵していたということが分って、こんな些細《ささい》な事が快く思い出されるのである。
 鶴見は啄木のことを回想しながら右の手に出来た肉刺を見返した。だいぶ膨《ふく》れてはいるがひどく痛みはしない。それで夢中になって鎌を扱っている。二時間くらいはすぐ立ってしまう。
 そんな仕事を二、三日つづけてしていたので疲れが出てぐったりしているのである。

 鶴見は思った。おれには植物に対する興味が押え切れぬほどある。鬱屈した気分を解くには草木|花卉《かき》のことを考えるに限る。鶴見はさきに『死者の書』を読み、感動して、動物の姿を追うて、過現未の三世《さんぜ》に転々した。動物のことを考えると自然に輪廻の思想にはまり込んでゆく。そ
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