に。われは壺を凝視す。
[#ここで字下げ終わり]

 輪廻の車は妄執の業によって永劫にめぐりめぐる。人間なればこそ、生物なればこそ、わたくしはそこに僅に永遠の消息を知り、それをよりどころとして、わたくしの信念は連続する。これもわたくしが早くから抱かされた思想である。近ごろ『ツァラツストラ』を読み返してみたが、あの難解な永劫回帰がどうやら自分流に領会されるように思われた。永劫回帰といえども、輪廻思想に基《もとづ》かねば建立されもしなかったろう。
 ――そこで死はどうであるか。「永遠なる再来」は慰藉《いしゃ》にはならない。ツァラツストラの末期《まつご》に筆をつけ兼ねた作者の情を自分は憐んだ。
 こういって、ファナチカルな行為を極端に忌《い》んだニル・アドミラリの作者は『妄想』の一文の中で、血の滴《したた》りのほとばしるような芸術的な偉大な幻想をこともなく放りだした。わたくしにはそれだけの勇気がない。
 輪廻は変貌であるともいえる。

[#ここから3字下げ]
わが皮膚は苦行の道場、閨房の絨氈《じゅうたん》、
冷やかな石に地熱を吸ふ獅子の恍惚。
われはわが頭に本より生れぬ言語を哺育《はぐく》み、
われは又わが心に本より死なぬ赤子を悲み嘆く。

われはこれ栴檀《せんだん》の林、虚空の襞《ひだ》の大浪、
高山の車輪の一列、一切の変装者、
隙《ひま》もなく魂を食《は》み尽すが故に無上の法楽――
わが密厳詩《みつごんし》。そこに「同時」を貪る「刹那」を聴く。
[#ここで字下げ終わり]

 人生は永遠の眼から見れば、単調な、さして取柄もない一平面に見えもしよう。そうはいうもののその単調は絶えず刹那のきざみによって克服されねばならない。輪廻は終局の目的でもあり同時に手段でもある。そこで終局の目的は永遠の中に没してしまう。刹那の面に現われるものは千変万化の方便、修行の道である。

 わたくしは老年の手習をはじめるつもりでこの文章を書いた。書いてゆくうちに、不思議なちからがわたくしを促した。魔性のさそいというようなものが加わってきたのかも知れない。そしていよいよこれが書きじまいになると急に気落ちがしてがっくりした。と思うと共に、きこえぬ霹靂《へきれき》の大きな音がわたくしを振り揺《ゆる》がして気をひき立てた。もともと異教徒であったパウロがダマスコの町へ入る途中、大きな光に繞《めぐ》り照らされて地に倒れた。パウロも今わたくしが感じたきこえぬ霹靂を聴いたのでもあったのだろう。パウロは眼には何も見ず、ただ復活のイエスの声を聴いた。さてわたくしは気落ちから恢復して何を知ったろう。わたくしは自分の卑小を知って、その素質である凡俗に立返えるのを見た。
 詩生活と日常生活の平衡がそこに保たれてゆく。詩生活を日常生活に及ぼしたくないのである。それでよい。ことさらに求めた中庸をわたくしは嫌う。

 この書の発刊に至るまでには野田さんをはじめ、編輯員の川上洋典、緒方秀雄両君のたびたびの往来を煩《わずら》わした。ここに厚く謝意を表す。
[#地から5字上げ]昭和二十二年九月、鎌倉にて     有明しるす。



底本:「夢は呼び交す」岩波文庫、岩波書店
   1984(昭和59)年4月16日第1刷発行
   2000(平成12)年11月8日第2刷発行
底本の親本:「夢は呼び交す」東京出版
   1947(昭和22)年11月30日
※巻末には竹盛天雄氏による「注」が付されていましたが、竹盛氏の著作権が継続中のため本文中の注番号も含めて割愛しました。
入力:広橋はやみ
校正:土屋隆
2007年11月27日作成
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