に供えようと考えている。これは已《や》むに已まれぬ執著に外ならない。執著の業には因がある。その業因は彼の未生以前《みしょういぜん》に遡《さかのぼ》る。目を遣《や》れば遣るほど計り知れぬ劫初《ごうしょ》にきざしているといってもなお及ばない。生は限りなく連続する。鶴見は、今そこに輪廻《りんね》を観じているのである。
 空無に見えるのは、それが一切であるからである。鶴見は今空無そのものを若返りの贖物にささげようとする。よしやそれが贖物の千位の一位にも足らぬものであろうとも、美衣も珍饌《ちんせん》も重宝も用をなさぬ永遠の若返りのために、彼はそうすることを欲しているのである。犠牲となる空無の羊は屠《ほふ》られもしよう。屠られはしても、流されたその血しおにはやがて流転する生の因子が含まれていよう。
 鶴見はまた溜息をついた。そして遠い所を見渡すようにしていたが、見当さえも定めかねた目に先《ま》ず映じたものは、時空のけじめを超えて、涯《はて》しもなく蠢《うごめ》く世界の獣の如き幻影である。それにもかかわらず彼の執著はなおもこの茫漠たる世界の雲霧を披《ひら》いて、執著を執著する一心の姿を辿って見ようとする。

 輪廻は確に贖いである。苦行である。それ故にその一々を贖いの過程と見て行けば、その贖いのための顕証として、歓喜の相をそこに多少とも示さねばならない。鶴見はそれを内心に予感し得るものであろうと考えている。その歓喜の予感のなかで、永遠の若返りの内容が連続錯綜して開展するのである。その姿をおぼろげにながめやりながら、彼はその一々に頷《うなず》いている。

 因循して旧を守っていて好いものか、それとも破壊してまでも急進すべきものであろうか。常識では判断は出来ない。ましてやその中を得るということはむずかしい。そういう状態に置かれた社会が、沈黙の言葉を以て、献身者を求めるのである。誰しも時としては何ものかを胸に蔵していて、考えさせられもするように感じながら、口に出してあらわには唱《とな》えられぬ想念を持っている。未だ表現を知らぬ思想である。どこに向って鬱した気を晴らして好いのか。人々はその隙間《すきま》を模索して、そのために悶え苦しんでいる。そういう時期がある。
 動揺期にある社会は守旧破壊の双方の主張の風を受けてますます波瀾《はらん》をあげているが、多数の人々はその双方の思想を識別して
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