夢は呼び交す
――黙子覚書――
蒲原有明

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)戦災に遭《あ》って、

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一方|悟道《ごどう》の

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)各※[#二の字点、1−2−22]
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  書冊の灰



 二月も末のことである。春が近づいたとはいいながらまだ寒いには寒い。老年になった鶴見には寒さは何よりも体にこたえる。湘南の地と呼ばれているものの、静岡で戦災に遭《あ》って、辛《つら》い思いをして、去年の秋やっとこの鎌倉へ移って来たばかりか、静岡地方と比べれば気温の差の著《いちじ》るしい最初の冬をいきなり越すことが危ぶまれて、それを苦労にして、耐乏生活を続けながら、どうやら今日まで故障もなく暮らして来たのである。珍らしく風邪一つひかない。好いあんばいに、おれも丈夫になったといって、鶴見はひとりで喜んでいる。
「梅がぽつぽつ咲き出して来たね。」
 鶴見は縁側《えんがわ》をゆっくり歩いて来て、部屋に這入《はい》りしなに、老刀自《ろうとじ》に向って、だしぬけにこういった。静かに振舞っているかと見れば性急に何かするというようなのが、鶴見の癖である。
「梅がね。それ何というかな。花弁を円《まる》く畳み込んでいる、あの蕾《つぼみ》の表の皮。花包とでもいうのかな。紫がかった褐色の奴さ。あれが破れて、なかの乳白な粒々が霰《あられ》のように枝一ぱいに散らかって、その中で五、六輪咲き出したよ。魁《さきがけ》をしたが何かまだおずおずしているというような風情《ふぜい》だな。それに今朝《けさ》まで雨が降っていたろう。しっとりと濡れていて、今が一番見どころがあるね。殊《こと》に梅は咲き揃うと面白くなくなるよ。」
 鶴見はいっぱしの手柄《てがら》でもした様子で、言葉を多くして、はずみをつけて、これだけの事を語り続けた。
「そうですか。だんだん暖くなって来ます。もう少しの辛抱でございますね。」
 刀自はあっさりとそういったきりで、縫針《ぬいばり》の手を休めない。不足がちな足袋《たび》をせっせと綴《つづ》くっているのである。傍《そば》に置いてある電熱器もとかく電力が不調で、今も滅《き》えたようになってい
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