ぬ象徴であらねばならぬ。島崎氏の出《いだ》したる新聲は時代の酸化作用に變質を來さぬものであることは疑ひを容れないのである。
 然るに今日島崎氏の詩を斥《しりぞ》けて既に業《すで》に陳腐の域に墜ちたものだといふ説がある、果してその言の如くであらうか。「若菜集」を讀む前にませて歪《ゆが》んだ或種の思想を擁《いだ》いて居《を》ればこそ他に無垢なる光明世界のあるのを見ないのであらう。輝ける稚《わか》き世――それが「若菜集」の世界である、※[#「女+櫂のつくり」、第3水準1−15−93]歌《かゞひ》の塲《には》である。こゝには神も人に交《まじは》つて人間の姿人間の情を裝《よそほ》つた。されば流れ出づる感情は往く處に往き、止《とゞま》る處に止りて毫も狐疑《こぎ》踟※[#「足へん+厨」、第3水準1−92−39]《ちゝう》の態を學ばなかつた。自《みづ》から恣《ほしひまゝ》にする歡樂悲愁のおもひは一字に溢れ一句に漲る、かくて單純な言葉の秘密、簡淨な格調の生命は殘る隈なくこゝに發現したのである。島崎氏はこの外に何者をも要《もと》めなかつた。宇宙人生のかくれたる意義を掻き起すと稱《とな》へながら、油乾ける火盞《ほざら》に暗黒の燈火《ともしび》を點ずるが如き痴態を執るものではなかつた。
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まだ彈《ひ》きも見ぬ少女子《をとめご》の
胸にひそめる琴のねを、
        知るや君。
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「若菜集」に於ける島崎氏の態度は正にこれである。まだ彈きも見ぬ緒琴《をごと》は深淵の底に沈んでゐる。折々は波の手にうごかされて幽《かす》かな響の傳り來ることがある。詩人の耳は敏《さと》くもその響を聽きとめて新たなる歌に新たなる聲を添へる――それのみである。「若菜集」にはまた眞白く柔らかなる手に黄《きば》んだ柑子《かうじ》の皮を半《なかば》割《さ》かせて、それを銀の盞《さら》に盛つてすゝめらるやうな思ひのする匂はしく清《すゞ》しい歌もある。……
「若菜集」一度《ひとたび》出でて島崎氏の歌を模倣するもの幾多|相踵《あひつ》いであらはれたが、徒《いたづ》らに島崎氏の後塵を拜するに過ぎなかつたことは、「若菜集」の價値を事實に高めたものとも言へやう。到り易げに見えて達するに難《かた》きは「若菜集」の境地である。「若菜集」はいつまでも古びぬ姿、新しき聲そのまゝである。島崎氏自身
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