、かつがつうちしめて滅し去る、怪みて人に問へば、これ各《おの/\》わが家の悲しき精霊《しやうりやう》の今宵ふたたび冥々の途に就くを愴《いた》み、そが奥津城《おくつき》どころに到りて「おくり火」焚くなりと教へられし一夜をわれは牧島村長の小高き阜《をか》の上の家に宿りたりし。
 いで、次に松浦川の流はそも如何なる風色をか呈し来る。伊万里の東二里ばかり、桃川の宿あり。南より流れ落る水は滝つ瀬をなしたるが、ここにて、その響のたゞならぬを聴く、これ松浦川の上流。
 山間の冷気は夜松浦川の渓を襲ひ、飽くまで醸しなされたる狭霧は恰も護摩壇の煙のごとし。そが中に屡々《しばしば》悪魔のごとき黒山の影の面を衝いて揺くに駭《おどろ》きつ。流を左に沿ひて大河野《おかの》に到り、右に別れて駒鳴の宿に入るや既に深夜を過ぎたり。駒鳴峠の嶮坂を越ゆれば、松浦川の支流なる波多川《はたがは》の沿岸に下るをうべし、われは新開の別路を択《えら》べり。篝火《かがりび》の影の濃き霧に映ずるところ、所々に炭坑を過ぐ。夜はいまだ明けざるなり。途にて荷車を曳きゆく老爺と、うらわかき村の乙女の一隊との唐津《からつ》へ出づるに遇ふ。我は太《はなは》だ力《つと》めたりといへども、こころよく笑ひゆく彼等に続くあたはずして、独のこされしことの殆夢のごとかりき。いな、これより二時《ふたとき》ばかりを熟睡のうちに過したるなり、醒むれば雑草ふかく鎖《とざ》せる、荒屋の塵うづたかき竹椽の上に横れる。
 ああ、まのあたり何等の活図画《かつとぐわ》ぞや! 今や天地は全く暗黒の裡を脱して明麗なる朝の景を描き出だす。簇々《むら/\》とまろがりゆく霧のまよひに、対岸の断崖は墨のごとく際だち、その上に生ひ茂る木々の緑の霑《うるほ》へる色は淀める水の面なづる朝風をこころゆくばかり染めなしたり、川くまを廻り来る船は苫《とま》をかかげて、櫓声ゆるく流を下す、節おもしろき船歌の響を浮べ、白き霧は青空のうちにのぼりゆく、しかも仍《なほ》朝日子《あさびこ》の出でむとするに向ひてかの山の端を一抹したる、看るからに万物生動の意はわが霊魂《たましひ》を掩へる迷妄《まよひ》の雲をかき払ひて我身|宛《さなが》ら神の光のなかに翔《かけ》りゆくここちす。すなはち自然の秘をさぐる刻下の楽《たのしみ》は、わがつかれ[#「つかれ」に傍点]とうゑ[#「えゑ」に傍点]とを忘れしめたるなり。ややあれば、瑠璃の艶あざやかなる朝顔の籬の下を走りくる童あり、呼びとどめ、所の名を問へば久保と答ふ。地図に就て案ずれば、ここより唐津に到るにはなほ三里を余す。前なる流は正しく松浦川の下流。
 佐賀市を距る十数里、小城《をぎ》を通ぜる国道と会し、往方《ゆくて》は坦《たひら》かなること砥のごとく、しばらくにして牟田部《むたべ》をすぐ、ここも炭坑のあるところなり。松浦川もまた養母田《やもた》にて波多《はた》川の水と合し、夕日山の麓にそひ、幾多雅趣ある中洲をめぐり来り、満島《みつしま》の岸を洗ひ、舞鶴城の残趾を噛みて、つひに松浦潟に注ぐ。

     二

 満島は松浦川の口に構へられたる一|小寰区《せうくわんく》なれども商業活溌なり、唐津の旧城下とあひむかへて、共に益々《ます/\》発達の勢を示せり。唐津は望みある土地なり、これを伊万里に比するに、まづ天然の風気に於て優に幾十段の懸隔あるをおぼゆ。彼にありては牧島湾、浅く、狭く、且つ年々に埋りゆけば、おのづから船舶の出入に不便を感ぜざるをえず、僅かに魚塩の利を保つに過ぎざらむとす。これに代つて起つもの豈《あに》唐津にあらざらむや。
 鎮守府の佐世保(北松浦にあり)、石炭の唐津、しかも後者は白砂青松、おほくえやすからざる遊覧地なるをや、啻《ただ》に遊覧地なるのみならず、その近傍は上代及近世に亙りて、歴史の上に関はるもの尠からず、また山光といはず、水色といはず、乃至、一茎の撫子、一羽のかち烏[#「かち烏」に傍点](肥前の特産)にも、飄霊の精気活躍するを看れば悉く詩歌のこころに洩るるはあらじ。
 筑前一帯の海岸は福岡、博多を中心として較《やや》世人に知られたり。しかれども海の中道《なかみち》を称するもの多からざるを悲む。そが明媚なる沙線の一端に連なるは志賀島《しかのしま》なり、この島の白水郎《あま》の歌などいひて、万葉集に載するものくさぐさあり、皆可憐の趣を備ふ。天平六年、新羅《しらぎ》に遣はさるる使人等の一行は、ここ志賀の浦波に照りかへす月光を看て、遠くも来にける懐郷の涙をしぼり、志摩郡の唐泊《からどまり》より引津泊《ひくつどまり》に移り、可也《かや》の山べに小男鹿《さをしか》の声の※[#「口+幼」、第4水準2−3−74]々《えう/\》たるを聴き、次で肥前国狛[#「狛」に傍点]|島《しま》に船をとどめたりしその夜の歌に
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