ノ)]歓酔。
如今更[#(ニ)]閲[#(ス)]幾星霜 城墟只見[#(ル)]草茫々、
田火有[#レ]時拾[#二]遺瓦[#一] 猶認[#(ム)]桐花旧徽章。
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瓦に桐花の紋章を焼きたるものは既に殆あさりつくされたり。
諸将陣営のあとは所々に散在す、みな数株の松を植う。広沢寺の庭に有名なる大|蘇鉄《そてつ》あり、韓土より齎《もたら》し来りしもの、寺は豊公の寵姫《ちようき》、広沢姫《ひろさはひめ》の居りしところといふ。
ああ、かくて城山を下る。
この地方に来りて忘るべからざるは捕鯨のことなり。呼子近海には小川島名だかし、されど、北松浦の平戸生月を最も盛んなりとす。露伴、幸田氏のものされたる、「いさなとり[#「いさなとり」に傍点]」を繙《ひもと》けば、その壮観、目に親しく睹《み》るがごとき詳細なる記述に接す、われ敢てここに贅《ぜい》せず。
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巨鬣掀[#(テ)][#レ]潮噴[#(ク)][#二]雪花[#(ヲ)][#一] 万夫攅[#(テ)][#レ]矛海門譁[#(シ)]
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[#地付き]頼 山陽
*
われ、すこしの閑をえて、以上の地に遊びたるは、二十八年、八月のことなりき。天さばかり風景に留連するの日子をたまはず、北松浦には一歩をも踏み入れざりし、これ洵に遺憾なりとす。されば、蒙古の襲来と、「国姓爺《こくせんや》」の戯曲とをもて有名なる平戸の島、さては黄海の風潮を観て、ただちに東亜の危機に処せんとするわが海軍の根拠地たる佐世保に就ては、未だ述ぶるあたはざるなり。
これを要するに、「松浦あがた」の地、殆その全部に亙りて山嶽縦横に連り、海岸はおほむね断崖をなし、出入はなはだしく、また所々に港の良きものを開く、佐世保、仮屋《かりや》、呼子《よぶこ》、及び唐房《とうばう》湾の如きは、その例なり。大小の島々に至りては数へつくしがたし、かかれば海岸の風光、つねに、大に多様多趣なるなきあたはず、そのながめや麗はしく、その彩色や明かなり。
山間の地は勢ひ人煙薄からざるをえざれども、ひとり有田に於てしからず、このごろ益々繁栄を来せり。すべて土地高燥なれば、気おのづから爽かなり。
しかれども山の高きと、川の広きと、はた肥沃なる平野の大なるものとを欠けば、これを筑前の国に比するに、彼にありては、博多(福岡)、よく自然的に、はた歴史的に、現今の地位を占めえたる――かくのごとき進歩はこの地に見るあたはざりき。外国との交通により、窯業《えうげふ》の発達せしことは一たび伊万里の名声をあげしめたりき、豊太閤の「名護屋御滞陣」は、一時天下の耳目を聳動《しようどう》したりといへども、単にこれをその他の盛衰に観るも、なお唯豪華の夢に過ぎざりけり。
さもあらばあれ、松浦川といひ、玉島川といひ、領巾振山といひ、平戸といひ、名護屋といひ、伊万里といふその名はすでに世の人の耳に熟せり。地は筑紫のはてにありて、かばかりの注意をひきえしもの、豈ゆゑなしとせんや。今や、唐津に、佐世保に、新たに松浦の風気を揚げむとす、大に栄えむことは、或は地勢や阻まむ、しかも永く衰ふべからざるなり。
わが「松浦あがた」の記はまさに了《をは》るといへども、なほ私《ひそ》かに飽かぬここちの禁《とど》めがたきものあり、そは人の未だこの地に遊びて、爽快なる大気のうちに嘯きしことを聞くの少なきを悲むがために。
底本:「ふるさと文学館 第48巻 【佐賀】」ぎょうせい
1994(平成6)年7月15日初版発行
底本の親本:「現代紀行文学全集 南日本編」修道社
1960(昭和35)年
初出:「読売新聞」
1898(明治31)年6月6日〜10日、12日、13日
※冒頭の頼山陽の詩は、底本では「際」が「※[#月+祭]」になっており、なおかつ「※[#月+祭]」と「※[#「縢の糸に代えて土」]」の場所が入れ違っていましたが、近代デジタルライブラリー(http://kindai.ndl.go.jp/)の「山陽詩鈔」(明治12年刊)を元に修正しました。
入力:林 幸雄
校正:鈴木厚司
ファイル作成:
2005年1月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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