詩の將來について
蒲原有明

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(例)[#地から2字上げ](昭和十二年三月)
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 こゝに掲げた標題が私に課せられた難問である。私は答案に窮するより外はない。
 近頃は社會萬般に亙つて何事も見透しがつきかねるといふ噂さである。詩も多分さうであらうことは、この出題によつても推測されるとほりに、私にも少しばかり思當りがないでもない。囘顧すれば自由詩が舊詩壇に取つて代つてから既に三十年にもなる。その上たとへ物々しい理論の矛を揮つたとはいへ、また多數の同士を率ゐたとはいへ、その登場はあまり安易に過ぎたのではなかつたらうか。今に及んで漸く行詰りが見られると言ふならば、それはむしろ自由詩のために長年月の幸運を逆によろこばねばならぬことであらう。
 河童は水が頭の皿に充ちてゐる間は河童相應の能力を出し得るもので、その皿の水がこぼれてしまへば唯々非力をかこつのみであると言はれてゐる。實をいへば私もこの水をこぼされた河童同樣に自由詩時代の乾いた陸に放りあげられて懊惱したことは、これをこゝに告白する必要は更にない。
 一世を風靡した自由詩にいつしか暮色が迫るのも致しかたない次第であるが、自由詩は然しながら普及したのである。現に街頭の宣傳ビラにも、新聞に載る化粧品の廣告にも、酒場や珈琲店のちらしにも、そこには現代が裸でよく踊つてゐる。あれはあれでよいのである。
 かくて一方に我邦の詩の將來が問題に上るに就て矛盾の感はあるが、これにはまた詮議すれば深い理由があらうといふものである。そこから宿命的な暗黒な疑惑が起つて來るのである。氣に留めねば何でもないことであるが、自由詩の障碍は最初からその脚下にあつたのである。旅人の草鞋の間に挾つた小石が生長して來て一の障碍となつた形である。意識すればするほどその石は増大する。この躓きの石が致命的であることは、それが現代語そのものゝ中に含まれてゐるからである。打明けて言へば、現代語に於ける退化した不愉快な數箇の助動詞其他の些細な語詞がそれである。如何なる天才も之を詩に改鑄するわけにはゆかない。たつた數箇の語詞の不適應性が自由詩をさへ無味單調の境界に追ひ込んで、僅に思想の斷片と機智の手控への外に出づること能はざらしめたのは現代語の缺陷によるもので、全く過去の業
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