へば第四幕目で、人々が戸口のところに立つてゐると、寒い空に橇の鈴の音が聞えてくる。その音を聞いて銘々が異つた感慨に沈む。その橇の鈴の音が脚本を讀んだ時からわたくしの胸に沁み込んでゐたので、特に氣をつけてゐたが、舞臺の上ではその部分が平々淡々の中に終つてしまつた。さういふ目拔きの場面が心行きが乏しいと云ふのか、兎まれ角まれ期待したほどの感銘を殘さずじまひになつたことは口惜しい。けれどもこれは實演が一般にむづかしいと刻印を押されてゐるイブセン物を始めて、我邦で出して見た試みに對しては、さう深く批難するにも當るまい。さういふ一部分の缺點は別として、大體から云へば、さほどのあらも見せず、イリユウジヨンをひどく破るといふこともなく、無事であつたことは何よりである。
 わたくしはこの試演を見て別に考へたことがある。さすがはイブセン物だけあつて、すべてが引緊つてゐて對話にも動作にも些しの厭味もなかつたが、それにしてもイブセンは隨分窮屈なものであることを、本を讀んだ時よりも強く感じた。イブセンが我邦の將來の劇にどれだけの感化を及ぼすかといふことになると、わたくしはいつも餘りにその浸潤を期待してゐなかつた一人である。我邦の劇がイブセン流に發展して行くだらうとは、とても思はれない。唯イブセンに就いて大に學ばねばならぬところが一つある。それは舞臺上の効果といふよりも、イブセンがその根本をしつかり握つてゐて、變に應じて妙手をうち出す劇構成のテクニクである。
 イブセン物の上場が今後とも一般によろこばれるか否かは疑はしい。イブセンの抱懷する思想は暫く問はない。先づ以て困るのはあの一分の隙をも容れぬ理屈と皮肉とのやりとりである。本で讀む時にはもとよりそのつもりなので調子も取つてゆけるが、またその間に禪機の如きものゝ閃きをすら認め得るが、これを實際に舞臺上の對話として聽いてゐたのでは少しつらい。これは確にこちらの耳がよく馴らされてゐないせゐもあるだらう。
 この試演の夕にこゝに集つた鑑賞家は東京に於ける教養の高い人々のみである。そのためにこの小劇場に過ぎぬ有樂座の内部も、座席といはず廊下といはず、濃やかな情趣に充ちた雰圍氣を釀し出して、我々をこの上なくよろこばせた。わたくしはこの事も忘れないでゐようと思ふ。
 この次の出し物についてはいろいろの噂さ話がある。アンドレエフの物のうちで何か遣るといふ
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