虚妄と眞實
蒲原有明
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(例)[#地から2字上げ](明治四十五年三月)
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「食後」の作者に
――君。僕は僕の近來の生活と思想の斷片を君に書いておくらうと思ふ。然し實を云へば何も書く材料はないのである。默してゐて濟むことである。君と僕との交誼が深ければ深いほど、默してゐた方が順當なのであらう。舊い家を去つて新しい家に移つた僕は、この靜かな郊外の田園で、懶惰に費す日の多くなつたのをよろこぶぐらゐなものである。僕には働くといふことが苦手である。ましてや他人の意志の下に働くといふことは、どうあつても出來ない相談である。それなら自分の意志の鞭を背に受けて、嚴肅な人生の途に上らねばならぬといふことは、それが假令考へられるにしても、その考を直ちに實行に移すことを難んずる状態である。今までに一つとして纏つた仕事を成して來なかつたのが何よりの證據である。
空と雲と大地とは終日ながめくらしても飽くことを知らないが、半日の讀書は僕を倦ましめることが多い。新しい家に移つてからは、空地に好める樹木を植ゑたり、ほんの慰みに畑をいぢつたりするだけの仕事しか爲さないのである。そして僅に發芽する蔬菜のたぐひは、これを順次に、いかにも生に忠實な蟲に供養するまでゝある。勿論厨房の助にならう筈はない。こんな有樣なのであるから、田園生活なんどは毫頭想ひも寄らぬことがらである。僕の生活は都會ともつかず田園ともつかず、その中間にあつて、相變らず空漠なその日暮らしで始終してゐる。そして當然僕の生涯の絃の上には、倦怠と懶惰が執ねくもその灰色の手をおいて、無韻の韻を奏でてゐるのである。
考へて見れば、これが「生の充實」を稱ふる現代の金口に何等の信仰を持たぬ人間の必定墮ちてゆく羽目であらう。その上、僕には本能的な生の衝動が極めて微弱であるから、悔恨の情さへ起り得ない。とどのつまり永遠に墮ちてゆく先は無爲の陷穽である。
然しながら無爲の陷穽にはまつた人間にもなほ一つ殘された信仰がある。二千年も三千年も言ひ古るした、哲理の發端で綜合である無常――僕は僕の生氣の失せた肉體を通じてこの無常の鏡を今更しみじみと聽きほれるのである。これが僕のこのごろの生活の根調である。矢張僕の神經や肉の纖維には佛教の蟲が食ひ
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