ない。俗惡で、とても好い文章など書けさうもない氣がして、それで始めのうちは嫌ひでたまらなかつたさうである。その後ウオタア・ペエタアの文章を讀んで見て英文の面白味が會得され、それから外の文章も味ふことができるやうになつたと云つてゐる。
 ムウアは英國に歸つてから、大に評論の筆を執り、自然主義や象徴主義を論じ、マラルメの散文詩を飜譯したり、ランボオの才を稱へたり、ヒユイスマンスの文をステンドグラスのやうだなどと云つて紹介した。
 然しムウアは漸次自然主義には慊らなくなつて、見たまゝを書け、主觀を交へるなと云ふ自然主義に對する不滿を述べて、こんなことを云つてゐる。
「たとへばこゝに店飾があつて、そしてここに一の描寫が立派に出來てゐたとしても、その描寫の價値がどこにあるかと云へば、それは寧ろ店飾をした主人にあるのではないか」
 またこんなことも云つてゐる。
「若し自然主義が後の文學によい感化を與へたところがあるとすれば、即ち自然主義の齎らした効果を擧げるとすれば、それは描寫と云ふよりも、その文章である。語彙を豐富にし、精細にした點である。これだけは自然主義の効果と云つてよい」
 それであるから、ムウアは藝術觀に於ても全く唯美派的で、「藝術は藝術のための藝術で、これは希臘の昔から今日に及んで變らぬものだ」と云ひ切り、作家は須くそのテムペラメントを發揮すべしと説いてゐる。從つてゾラに對しても、作物そのものは劣ると見做し、殊にゴンクウル兄弟に就て、こきおろしてゐる。
「ゴンクウル兄弟などは藝術家でない。藝術はそんな合名會社風に出來るものではない。一體日記をつけて、自分達の名を後世に殘さうと思ふことからして如何にもさもしい根性だ」と云つてゐる。
 然しゾラ以前のバルザツクはひどく好きで、「勿論、バルザツクはシエエクスピイアよりもいゝ」と云つたので、英國人には餘り好まれなかつた。
 繪畫の方では、マネエなどの、多少新味のあるうちにクラシツクの線のあらはれてゐるのが好きで、今日で謂ふところのモネエ以下の印象派には重きを置いてゐない。そして「モネエの畫は漆喰細工だ。亞米利加人向きだ」と云つてけなしつけてゐる。
 ムウアはまた批評家が英吉利のウイスラアを印象派の中に入れてゐるのは大間違だと斷定して、「彼はクラシツクのクラシツクだ。形の完全と色の調和を求めることにおいては、希臘人よりももつと
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