は今一本手が欲しくなりますネ』と言つて苦笑した次第であるが、印度の如きも多分これと同斷の蠅であつた爲め、四臂六臂の佛像が作り出され、其の一本には必ず拂子を持たせてゐるのであらうと悟つた。
 ルクゾールから更にナイルを溯つてアスワンに行けば、流石に大分靜かになつて、谷は逼り水は清く、山河のたゝずまひも可愛らしくなつて來るが、エレフワンチンの島も左程美しくはなかつた。たゞ印象の深かつたのは、石切場附近の荒凉たる風物と、切り殘した古代の「オベリスク」と、又半ば以上水中に沈んだフイレーの神祠であつた。眞黒な土人に小舟を漕がせて亡國の船唄を聞き、水中から頭だけを出してゐる神祠の屋根に登るのは、珍らしい見物であつたが、「ダム」の長堤を走つては、此の世界有數の大工事に驚嘆する外はなかつた。
 我々は此のナイルの第一瀑流から引きかへして、カイロへ歸へる途中、エドフ、デンデラとアビドスの三神祠を訪ねた。併し此等も先づ以て千遍一律の建築と言つてよく、ケネーの田舍宿では虱に攻撃せられ、汽車の中では塵埃と南京蟲に惱まされ、あらゆる惡蟲を經驗し盡して、二週間ぶりにポートセイドへ歸著し、一日遲れて到著した我が伏見丸に乘り込んだ時には、全くやれやれと蘇生の思ひをしたことである。

          六

 之を要するに、私は埃及へ二度と行き度いとは思はない。印度もセイロンの一角に足を印しただけであるが、更に深く内地へ這入つて佛跡を探らうと言ふ氣分は起らなかつた。恐らく此處も亦た埃及と同樣詩の國ではなからう。
 埃及の私に善い印象を與へなかつた原因の一は、必しも氣候の故ではない。阿弗利加とは言へ二月の埃及は決して暑くはない。否なカイロでは冬服に薄い「シヤツ」では寒いこともあつた位である。又た蚊乃至南京蟲の如き惡蟲の故ばかりでは無い。それは支那に於いても略ぼ同樣であるに係らず、支那はなほ我々を惹付けるのであるから。
 然らば埃及が我々――少くとも私に同情を起さしめなかつた原因は何處にあるかと言ふに、恐らく其の過去の殘骸、死に果てた文化の遺物ばかりが徒に偉大であつて、我々は其の壓迫を感ずることが多過ぎるにあると思ふ。而して又、中世はあつても古代と聯絡はなく、現代の埃及は、古い昔の廢址に築かれた「バラツク」に過ぎない感があり、其の間の「ギヤツプ」が大き過ぎるにあらうと思ふ。希臘の如きも、若干此の範疇に入る可き傾向はあるが、支那はさうではない。其の偉大なる過去の文化と、現代との間になほ連綿たる脈絡の存するものがあり、我々はなほ廢墟のうちに生命の呼吸を感ずることが出來るのである。西洋の旅客が我が日本に來つては、恐らくは此等「オリエント」の古圖とは違つた一種清快な情趣と、過去と中世と而して現代との間に、脈々たる連絡の存してゐることを感得するのであらう。而して或る意味に於いて絶東の一端に、再び歐洲の再現を見出すかも知れない。
 これは私が埃及から日本へ歸る船の上で、つく/″\と思ひ浮べた感想である。
[#地から2字上げ](文藝春秋七ノ八、昭和四、八)



底本:「青陵随筆」座右寶刊行會
   1947(昭和22)年11月20日発行
初出:「文藝春秋」
   1929(昭和4)年8月
※「バクシシユ」と「バカシシユ」の混在は底本の通りです。
入力:鈴木厚司
校正:門田裕志
2004年5月18日作成
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