プション付きの図(fig18371_82.png)入る]
さてその後《ご》、北朝鮮《きたちようせん》には高句麗《こうくり》といふ朝鮮人《ちようせんじん》の國《くに》が建《た》てられて、支那人《しなじん》の勢力《せいりよく》がだん/\なくなつてしまひました。この高句麗時代《こうくりじだい》の古墳《こふん》は平壤《へいじよう》附近《ふきん》のほか朝鮮《ちようせん》の北《きた》、支那《しな》との國境《こつきよう》にもありまして、そこには將軍塚《しようぐんづか》などといふ名《な》のついてゐる、石《いし》で造《つく》つたエヂプトの階段《かいだん》ぴらみっと[#「ぴらみっと」に傍点][#「ぴらみっと」は底本では「ぴらっみと」]のような大《おほ》きな墓《はか》があります。これは高句麗《こうくり》の古《ふる》い頃《ころ》の好太王《こうたいおう》といふ王樣《おうさま》のお墓《はか》であるといふことであります。この墓《はか》の内部《ないぶ》には石《いし》で作《つく》つた部屋《へや》がありますが、古《ふる》くその中《なか》を荒《あら》したものがあつて今《いま》は何《なに》も殘《のこ》つてをりません。またこの墓《はか》から遠《とほ》くない所《ところ》にその王樣《おうさま》のことを記《しる》した自然石《しぜんせき》の大《おほ》きな碑《ひ》が立《た》つてをります。それを讀《よ》むと、日本人《につぽんじん》が朝鮮《ちようせん》へ攻《せ》めて行《い》つたことが記《しる》されてありますが、多分《たぶん》神功皇后《じんぐうこう/″\》の[#「神功皇后《じんぐうこう/″\》の」は底本では「神后皇后《じんぐうこう/″\》の」]三韓征伐《さんかんせいばつ》のときのことなどが書《か》いてあるように思《おも》はれます。この將軍塚《しようぐんづか》や碑《ひ》のあるところは鴨緑江《おうりよつこう》の北《きた》で、今日《こんにち》では支那《しな》の領地《りようち》となつてゐます。高句麗《こうくり》は、その後《ご》この北《きた》の方《ほう》から都《みやこ》を平壤《へいじよう》に移《うつ》しましたので、その後《ご》の古墳《こふん》は平壤《へいじよう》の西《にし》の方《ほう》にたくさんあります。それらの墓《はか》の中《なか》には大《おほ》きな石室《せきしつ》がありまして、室内《しつない》には實《じつ》に驚《おどろ》くほど
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