んのうころ」は底本では「びんたつてんのうころ」]までは、少《すこ》し形《かたち》は小《ちひ》さくなりましたけれども、やはり御陵《ごりよう》はみな前方後圓《ぜんぽうこうえん》の塚《つか》でありました。ところが用明天皇《ようめいてんのう》、推古天皇《すいこてんのう》、すなはち聖徳太子《しようとくたいし》の頃《ころ》の天皇《てんのう》から天智天皇頃《てんちてんのうころ》までは、支那《しな》の影響《えいきよう》を受《う》けた四角《しかく》な塚《つか》が御陵《ごりよう》に行《おこな》はれて、まったく樣子《ようす》が變《かは》つて來《き》ました。いま申《まを》した天皇樣《てんのうさま》の御陵《ごりよう》はたいてい大和《やまと》から河内《かはち》などにありますが、天智天皇御陵《てんちてんのうごりよう》は山城《やましろ》の國《くに》京都《きようと》の東《ひがし》の方《ほう》にありまして、四角《しかく》の塚《つか》で上部《じようぶ》が圓《まる》くなつてゐるといふことであります。この天智天皇御陵《てんちてんのうごりよう》にかたどつて、明治天皇《めいじてんのう》、昭憲皇太后《しようけんこうたいごう》[#「昭憲皇太后《しようけんこうたいごう》」は底本では「照憲皇太后《しようけんこうたいごう》」]、大正天皇《たいしようてんのう》の御陵《ごりよう》などもつくられたといふことであります。あなた方《がた》はこの御陵《ごりよう》へは參拜《さんぱい》したことがありませうが、あゝいふ風《ふう》に出來《でき》てをつたのです。
 その後《ご》奈良朝《ならちよう》から平安朝《へいあんちよう》の始《はじ》めの御陵《ごりよう》になりますと、また昔《むかし》にかへって圓《まる》い形《かたち》の塚《つか》になりました。そして佛教《ぶつきよう》が盛《さか》んになつて來《き》てからは御陵《ごりよう》は一《いつ》そう簡單《かんたん》になり、また後《のち》には火葬《かそう》が行《おこな》はれまして、小《ちひ》さな御堂《おどう》や石《いし》の塔《とう》を御陵《ごりよう》に建《た》てることになり、ことに武家《ぶけ》が勢力《せいりよく》を占《し》めるに至《いた》つた時代《じだい》からは、皇室《こうしつ》の御陵《ごりよう》は甚《はなは》だ小《ちひ》さなものになつてしまつたのです。それに引《ひ》きかへて日光《につこう》にある徳川氏《と
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