摩《さつま》の方《ほう》に定《さだ》められてありますが、それは神代《しんだい》の御陵《ごりよう》でありますから今《いま》は申《まを》しません。次《つ》ぎに第一代《だいゝちだい》の神武天皇《じんむてんのう》の御陵《ごりよう》は、大和《やまと》の畝傍山《うねびやま》の麓《ふもと》にあることは皆《みな》さんも知《し》つてをられるとほりであります。しかし、この神武天皇《じんむてんのう》の御陵《ごりよう》は久《ひさ》しく荒《あ》れはてゝをつて、實《じつ》はその形《かたち》もよくわかりませんし、場所《ばしよ》についてもいろ/\の説《せつ》がありますが、とにかくあまり大《おほ》きくない圓《まる》い塚《つか》であつたと思《おも》はれます。それから六七代《ろくしちだい》ばかりの天皇《てんのう》の御陵《ごりよう》も大和《やまと》の南《みなみ》の方《ほう》にありますが、やはり圓《まる》い塚《つか》であつたらしいのです。第十代《だいじゆうだい》崇神天皇《すじんてんのう》と、次《つ》ぎの垂仁天皇《すいにんてんのう》の頃《ころ》から、前《まへ》が角《かく》で後《うしろ》の圓《まる》い前方後圓《ぜんぽうこうえん》の立派《りつぱ》な車塚《くるまづか》が、築《きづ》かれるようになつたことは疑《うたが》ひありません。その垂仁天皇《すいにんてんのう》の時《とき》に、あの野見宿禰《のみのすくね》が埴輪《はにわ》を造《つく》つたと傳《つた》へられてゐることは前《まへ》に申《まを》しました。それから降《くだ》つて景行天皇《けいこうてんのう》、成務天皇《せいむてんのう》また神功皇后《じんぐうこう/″\》の[#「神功皇后《じんぐうこう/″\》の」は底本では「神后皇后《じんぐうこう/″\》の」]御陵《ごりよう》などは、皆《みな》奈良《なら》の南《みなみ》あるひは西《にし》の方《ほう》にありまして、やはり大《おほ》きな前方後圓《ぜんぽうこうえん》の塚《つか》でありますが、仲哀天皇《ちゆうあいてんのう》、應神天皇《おうじんてんのう》に至《いた》つて、始《はじ》めて河内《かはち》の南方《なんぽう》に御陵《ごりよう》がつくられ、次《つ》ぎの仁徳天皇《にんとくてんのう》から三代《さんだい》ばかりは、昔《むかし》は河内《かはち》の國《くに》であつたが今《いま》の和泉《いづみ》の國《くに》の北方《ほつぽう》、堺《さかひ》の附近《
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