の方の四つ目窓が入口の兩側に開いてゐるのが、ずつと後の尚寧王(一五八九――一六二〇)の陵である。尚寧王の父祖は皆首里の玉陵《たまおどん》に葬つてあるが、王は島津氏の捕虜となり、日本へ拉し去られたことあるを恥ぢ、故らに獨り此の古陵の傍に奧津城を作らしめたのであると傳へられてゐる。此の墓内に於ける王一族の棺の配置などは、之を記した文書があつて、昨日圖書館で其の寫しを見せられた。
私は此の浦添の王陵の淋しい氣分がとても氣に入つた。第一「ようどれ」と云ふ言葉は、意味が分からなくても、何となく此の寂寞たる墓域の氣分を善く現はしてゐるではないか。よう[#「よう」に傍点]とは世、どれ[#「どれ」に傍点]とは瀞《とろ》と同じく靜まりかへる義であるとは、如何にもさうあるらしく私の耳にも感じられる。英祖王陵の左右には、大きな圓筒形の高い柱が立つて居り、その上には狛犬形の像が置いてある。而して兩つの陵の間にあたる處には、小さな碑亭があつて、此の中にあの有名な「ようどれのひのもん」と題して、長い琉球文を片假名で刻した砂岩の碑が立つてゐるのである。柵をすかして見ては、其の磨滅した文字の全文を讀むことは出來ない
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