與ふる處が、その崇高偉大なる所以であり、陵墓建築として洵に理想に近いものである」と云つて居られるは、實に私の言はうとする所を道破せられて、一語の之に加ふ可きものがない。伊東先生は如何なる時に此の陵を訪ねられたか知らないが、私は丁度どんよりとした時雨空に膚寒い風に吹かれながら、此の陵前に立つて特に此の感をば深くしたことである。
八 首里の城内
支那式の守禮門を通つて東に進むと、左手に唐破風を頂いた石門がある。これが即ち園比屋武嶽《そのひやんだけ》の杜の拜處の門である。これは四百餘年前の建築であることは、門※[#「木+眉」、第3水準1−85−86]の陶製の扁額に「首里の王おきやかもひかなし御代にたて申候、正徳十四年己[#「己」は底本では「已」]卯十一月二十八日」とあるのを以て知ることが出來る。形は小さいが恰好は善く、而かも堅實な感を與へる和漢折衷の面白い樣式が氣に入つた。之と同じ形の門が、私は見なかつたが首里の東北|冕《べん》ゲ嶽にもあるさうである。此等は何れも山嶽や森林に神靈を拜する古代信仰の標幟である。
更に進んで歡會門から龍樋の清泉を掬し、瑞泉門を潜つて石
前へ
次へ
全43ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
浜田 青陵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング