日本の年號を使用してゐるのに、琉球では國字の碑に支那の正朔を用ゐてゐるのは、此の國の歴史と國情を物語るものとして、却つて我々の興味をそゝるものが大きい。
「ようどれ」の王陵に此の琉球文で書かれた最後の金石文を見た私は、やがて首里の玉陵に其の最古の碑を見ることを得たのである。

          七 首里の玉陵

 浦添《うらそへ》から首里に引きかへして、私達は尚侯爵の別邸を訪問した。先代の侯爵には英國に留學中牛津で御目にかゝつたが、今は知る人もない此の邸に、家令百名翁に面會し、其の宏壯な書院造の應接室と、其の後ろの部屋に並べてある古い琉球の樂器(支那風の)などを拜見し、玉陵や崇元寺の拜觀のことに就いて御願をする。此の侯爵邸はもと中城御殿《なかぐすくうどん》と稱し、世子の御殿であつて、安政四年の新築と云ふが、便所の窓に半透明の貝殼を張つて、硝子の代りにしてゐるのが特に面白いと思つた。
[#「第一一圖 玉陵」のキャプション付きの図(fig4990_01.png)入る]
 さて玉陵《たまうどん》は首里の城の南方、天界寺趾の前にある尚王家歴代の陵廟である。弘治十四年(文龜元年、西紀一五〇一)
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