れは全然新式のノロの殿である。丁度此の時ノロさんは其の神殿の前で祷つて居り、その傍に二人の少女とその母親らしい人が二人居るので聞いて見ると、是は本年高等女學校へ入學の出來るやうに祷つてゐるとの話。而かも此の山のノロさんは、現在名護の女學校の生徒であるので、當分親類の女の人が代理をしてゐるのであるといふ。さればこそノロさんの家には女學生の制服や教科書が座敷に見えたのも解せられた。さても此の女學生のノロさんの時代頃に入れば、定めし色々信仰や祭儀にも變化が現はれることであらう。
ノロさんの家で勾玉と此の地發掘の銅鏡二面を見た。鏡はヤマトの時代で言へば藤原以後、恐くは支那傳來のものと思はれる。更に後ろの神山の上に登つてから宿に歸ると、私達の後を逐つて來た福原君が來著せられ、夕食の後村の青年會の人々十數人が、特に私達の爲めに盆踊りをやつて下さるといふので、洋服に著かへなほして見に行つた。琉球なればこそ此の一月のはじめに、野天で篝火を焚いて踊を見ることが出來るのであり、村人の厚意には深い感謝の念を捧げる外はなかつた。
一六 上ン土の古墓
次の日は朝九時神田、福原二君などを加へて、名護の西方小一里にある上《ウエ》ン土《チヤ》の古墓を見に行く。これは島袋君の新に發見せられたもので、化石の澤山ある第三紀層の崖に穿られた洞穴の中に、石棺を澤山收めてあるものである。穴は二つばかりあるが、大きな方の穴の口には、石を以て垣を作つて塞いであるが、それを少し取り除けて中を覗くと、赤や青の彩色ある小さい家形の石棺、或は陶棺、木棺が二十ばかり雜然として並べられ、其の中から白骨が顏を出してゐる無氣味さよ。こゝは名護の古い時代の墓地であらうが、古いと言つても固より足利頃のものである。なほ上の方の山にも同樣の稍々小さい墓穴があり、右手の樹木の茂つてゐる山の上にもあるが、此の山の上のものは、洞穴の内部のみならず、その前の方の山腹まで石棺が露出し、白い髑髏がはみ出してゐる。K博士などならば振ひつく可き處を、私などは寧ろ戰へ上つて早々遁げ出したくなつた。
[#「第一五圖 上ン土洞穴内石棺」のキャプション付きの図(fig4990_05.png)入る]
[#「第一六圖 上ン土上ンヤマ洞穴内石棺」のキャプション付きの図(fig4990_06.png)入る]
運天へ車を急がす道すがら、呉我
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