してゐる。貝殼の散布も極く少なく、土器に至つては小破片さへも殆ど見付らない。鳥居君をはじめ、松村君等があれ丈けの發掘物をせられたのも、可成の勞力であつたらうと今更ながら現場を見て感ぜられる。併しとにかく此處は沖繩に於ける最初に發見せられた貝塚として、永久に記憶せらる可き處であらう。
 丘を下つて東に進むと、車はやがて中城々址の丘の麓に停り、我々は車を捨てゝ城址に登つて行く。

          一四 中城々址

 中城《なかぐすく》々址の寫生圖と其の平面圖めいたものは、ペルリの琉球訪問記に載せてあつて、當時艦隊の探檢團が、此の邊までもやつて來たことが詳しく記されてゐる。此の城は大體石垣の具合などは、日本内地の城に似てゐるが、アーチ形の小門などのある處は、如何にも琉球的である。ペルリ艦隊員の賞讃を博した通り頗る面白く出來てゐる。我々は蔦葛の纏つてゐる石垣の上に出で、村役場になつてゐる建物のある本丸の處から眺望を肆にすると、脚下には中城灣の碧波が跳り、直向ひには勝連《かつれん》城のあつた與勝半島が薄紫に浮び出てゐる。實にや此の勝連に城を構へて、中山を睨らんで居た梟傑|阿摩和利《あまわり》に備へんが爲めに、この中城に忠臣|護佐丸《ごさまる》(毛國鼎)が城を構へたのは尚泰久王の時であつた。當時勝連の繁榮と阿摩和利の聲譽は、
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「勝連《かつれん》はなれにぎや譬へる、
 倭《やまと》の鎌倉《かまくら》に譬へる、
 氣も高はなれにぎや」
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とオモロに歌はれ、
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「百踏揚《もゝとふみあがり》や、けさよりやまさて
 百《もゝ》と按司《ちやら》の、主《ぬし》てだ、なりわちへ、
 君の踏揚や、首里《しより》もり城《ぐすく》、
 眞玉《まだま》もりぐすく」
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と羨まれた其の配|百十踏揚《もゝとふみあがり》姫は、私達が昨夜旭劇場で見た美くしい夫人で、尚泰久王の女であつたが、護佐丸を除かんとして阿摩和利は、彼自身に對しての兵を修めてゐるのを以て、却つて王に對して叛逆の志を抱いてゐるのであると讒した。之を信じて王は阿摩和利を將として中城を襲はしめたが、此の時護佐丸は王に申開きをする術もなく、さりとて王の軍勢に抗するを屑とせず、遂に恨を呑んで妻子と共に自殺してしまつたのであるが、此の本丸こそ此の悲劇の演ぜ
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