代劇も中々面白く、見物をして涙を催さしめる場面もあつた。殊に組踊りは男優にして、斯くも女らしく優しく舞へるものかと驚かされた。愈々『阿摩和利』劇となる。これは大體内地の舊劇の仕組であるが、琉球中世の梟雄|阿摩和利《あまわり》を主人公とし、之に配するに其の美しい妻|百十踏揚《もゝとふみあがり》姫などを以てし、變化ある幾多の場面は、今日はじめて島袋福原兩君から此の史劇の荒筋を聞かされた私にさへ、非常な興味を感ぜしめたのであるから、郷土の人には如何に大きな感動を與へたことであらうか想像に餘りある。琉球語の能く分からぬ位は、西洋で言葉の一向分からぬ芝居を屡々見たことのある私には何でもない。却つて若干解し得る言葉が出て來るのが非常に嬉しかつた。夜は更けても劇は中々終らない。併し私は明日早く那覇を立つて、今舞臺で見つゝある阿摩和利の居城|勝連《かつれん》を遠望し、その敵手であつた忠臣|護佐丸《ごさまる》の中城《なかぐすく》をも訪ねんとするのである。餘り遲くなつてはと、兩君よりも一足先きに宿に歸つたのは十一時頃であつた。
一三 普天間から荻堂貝塚
第四日目はいよ/\那覇を出發して島袋、豐川、小竹三君と共に、國頭への旅に出かけた。往路は中街道を普天間から荻堂貝塚を訪ね、中城々址を見、伊波貝塚を經て名護に出る豫定であつたが、伊東博士の『木片集』には、先生が凄しい暴風雨に出會つて、中城の城の麓まで行きながら、遂に城址には登られずして引返された恐ろしい經驗が記されてゐる。併し幸ひ今日の日本晴では其の心配もなく、我々は惠まれた天候を感謝する外はなかつた。
那覇の町はづれ、暫くは失業救濟の道路工事で車の通行も妨げられ勝であつたが、やがて大きな松の並樹――それは尚敬王の時代に蔡温が植ゑた賢明な施設である――のある街道所謂宜野灣の松原に出で、さながら東海道の舊道を走る思ひがする。三里ばかりで普天間《ふてま》に着き、有名な權現祠のある鐘乳洞を見る。如何にも石器時代の住居の址がありさうな洞穴である。喜舍場の小學校の下で校長さんに出迎へられ、一緒に荻堂に向つたが、道は細く山道となり、如何にも危かしく、やう/\荻堂の村に上り著くと、貝塚の持主の人が出られて、村の北手にある貝塚に案内して呉れられた。行つて見ると、これが貝塚かと驚かれる程小さい猫の額の樣な斜面の畠地で、直ぐ崖に接
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