六年五月米國のペルリ提督が、始めて琉球を訪れて、那覇の港に船が近づく時、其の美しく青々とした英吉利の景色にも似た海岸に、ところ/″\白い斑點のあるのを見た。始めは家かと思つて居たが、其の後これは石灰岩で作つた墓であることが分つたと、便乘のタイラーなる人の日記から抄出して、ペルリの『日本訪問記』に記してゐる。黒船の騷ぎから八十年以後の私達も、殊には考古學の書生たる私には――やはり海岸に散點する白い墓が、何よりも先に直ぐに眼に付いた。但しペルリの船の人々には、此等の墓と共に今一つ、左手に突出した岩塊(波上宮のある)の傍に、思ひがけなく翻つてゐた英國の「ユニオン・ジヤツク」の旗が目を惹いたが、これは當時那覇に滯在して、耶蘇新教の布教に從事して居つたべツテルハイムと云ふ英人の宿所護國寺に立てられてゐたものである。
埠頭に船が着くと、私と同船して來た新任の沖繩縣内務部長階川君を出迎への群集が、船室へドツと押し寄せて來る。その序でもあらうか、清野君から紹介せられて居た西山伊織博士や、眞境名安興君などが尋ねて來られたので、沖繩見物の私の身體も、安心して此等の人々に托することが出來た。而して荷物は寳來館の番頭に。
三 城嶽とハブ
寶來館に落付いた私は、障子を明け放つた座敷に、名も知らぬ熱帶的な植物を眺め、初夏にも似た強い日光を浴びながら、ボンヤリと南島的氣分に浸つてゐると間もなく、西山博士をはじめ眞境名翁、初對面の島袋源一郎君、豐川君その他福原、中川、清川の諸君が来訪せられ、一體琉球に何を調べに來たかと尋ねられる。これには一寸弱つたが、「實は別に何の當もないが、琉球の事物一切の概念を得るのが目的である」と白状して、六日間の旅程を作つて貰ふことゝしたが、島袋君等の手で早速出來上つて之に唯々諾々從ふことに成つた。
今日は先づ那覇の市中を見物しようと、人力車に乘つて縣廳に顏を出し、その隣りの圖書館に行き、眞境名翁の部屋で豐富に集められた郷土史料をのぞき、又某氏の持參せられたノロの勾玉にも始めて見參する。此の圖書館に近く、東南の松の樹の少し生えてゐる丘陵が、具塚のある城嶽《ぐすくだけ》であると教へられ、諸君と共に其處へ登つて見ると、美しい那覇の市中が一望に豁けるのも嬉しい。むかし王の大親と云ふ豪族が、此處に住んで居つたが、尚清王が其の女の容色を望んで后としよう
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