もう世間から追い出しをくった者のような気がして、さっきはなしたことを思い出しながら私自身かなしくなりました。
 病院の帰りに、古いジャケットを売って三百円得ました。それで私はコーヒをのみ、インキと便箋を買い、残りの百円で映画でもみようとにぎやかな街に出ました。と、そこに、信二郎の後姿をみました。三十五六のやせ型の美しい奥さんと一しょです。まっぴるま、学校へは行かないで。私は不安な気持になりました。いつになくズボンの折目をただすために寐押しをしていた昨夜の信二郎の姿を思い出します。私はその後を三十|米《メートル》もつけてあるきましたが、ふと横筋にそれるとそこの袋小路で長い間ただつったっておりました。信二郎は一体どんな気持でいるのでしょうか。
 信二郎は小さい時から気立てのやさしい素直な子でした。体が弱く一年のうち寐ている方が多いようでした。自然、外へ出て近所の子供達とあそぶような事はなく、家の中で本をよんだり縁側でカナリヤの世話をしたりすることを好んでおりました。他所の人がよく勝気な私と比べて、信二郎と私といれちがっておればよかったと申しました。顔立ちもおとなしく、今でも餅のような肌をしていて、目の下などにうすいうぶ毛があります。背は私よりかなり高いのですが、抱きしめてやりたいようなあいらしさを持っております。私は姉が弟に対する世間一般の気持以上のものをいつからか持っておりました。若い仲間より自分が一人とりのこされたようなさみしさをなくすために、私は、よくお酒をのみにゆきますけれど、そんな時、わいわいさわいでいる中に、たえず信二郎のことは忘れませんでした。信二郎は姉の私に口答えもせず、いい子でしたけれど、私のともすれば行動にまで出る愛撫をきらっておりました。それなのに、信二郎は年上の奥様の愛撫をうけているのではないでしょうか。おさげの女学生なら私は何とも思いません。相手が私と向いあっているような人だけに私は敗北感に似たものを感じ、嫉妬さえおこしました。露地を出て、家へかえるまで私は信二郎のことを考えつづけました。映画をみる気も起りません。この頃、よく新聞に出ている阪神間の婦人方の乱行ぶりの記事がちらと頭をかすめました。信二郎だけはまっすぐに歩んでほしいのです。兄様は落伍者、私は女なのですから、始めっから大した希望も抱負もないのです。信二郎が大きくなってこの家をおこさねばなりません。家産の傾きを元へ戻さねばなりません。いやそれよりも信二郎だけでも安定した平和な生活をおくってほしいと思うのです。私はあの子の力にならなければ。母様は教育もなく、もう毎日のたべることだけで他のことは考える隙もないのです。父様も廃人。私は足をはやめました。門をはいると別棟の茶室の庭で、父の妹の未亡人が火をおこしておりました。もう何十年か前に主人をなくして、今は中学へ通っている一人の息子の春彦と二人、編物の内職とわずかな株の配当でくらしております。
「唯今、おばさま」
「おかえんなさい。そうそう郵便が来てましたよ、二三通だったかしら」
 狭い船板で出来た縁側には、おいもがならべてあり、その横で野菜をきりかけたまま庖丁が放り出してあります。昔、その茶室で四季にかならず御茶会をしておりました。湯のたぎる音、振袖のお嬢さんや、しぶい結城などきた奥様の静かな足さばき。ぽんとならすおふくさ。今は、青くしっとりしていたたたみも、きいろくところどころやぶれておりました。
「雪ちゃん、おばさん今日から一日を五十円以下で済まそうと思ってるのよ。朝は番茶とパン、おひるは漬物と佃煮、夜は一日おきに蒲ぼことちくわ」
 叔母はそう云ってからから笑いました。この叔母のお嫁入の頃は家の全盛時代でしたから、そのお嫁入のお仕度は、叔母の美貌と共に随分世間に評判になったのでした。あの頃の追憶ばなしを父や叔母は度々いたします。何しろ私達が生まれる頃はやや降り坂だったらしく、その豪華版を私はしりませんでしたけれど、父の生まれた所など通りすがりに眺める度に茫然とするのでした。その屋敷は戦前人手に渡り水害のため全壊し、又空襲でわずかにのこった門番小屋や大門も焼けてしまっておりました。園遊会の写真などを土蔵の隅にみつけ出したりする時に、こんな生活を羨しがったり、或いは祖先がそういう生活をしたと得意がる以上に、明日知れぬ運命をおそろしくさえ思うことが度々ありました。いくらかかたむきかけた私達の幼少の頃と云っても、今思い出しておかしくもさえある生活でした。すぐ近くへ行くにも自動車に乗りショフワーの横の席を子供達は取りあいでした。幾人ものお客様をもてなしたりしたことを思い出します。お二階の御座敷には、大きなぶあついおざぶとんが並べられます。女中達が、白いエプロンをぬいで黒ぬりのお膳をはこびます。お茶碗などは、
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