「本当ね。でも勉強のものだけは十分にしてあげたいわね。雪子にも、たんす一本、買ってやれなくて……」
 私は苦笑しました。そして襖越しに声をかけました。
「母様、お金はふって来ませんよ。すわってて待ってたって駄目よ。何かやらなければ……、売喰いはもう底がみえているし」
「商売でもやるの、出来ませんよ。商売人でない我々がやったら結局損をしてしまうんですよ」
「だって、じゃあ一体、これからどうするつもりなの、何もやらないとしたら、いつまで続くとお思いになるの」
「税金のこともあるんだし、まあ、神様におまかせしてあるんですから。昔、あまりぜいたくした罰だと思わなきゃ。もう少し、辛抱していたら又、神様がお援け下さいます」
 私は云っても無駄だと思いました。父と母とには見栄があるのです。なまじっか商いでもやろうものなら、すぐにこの街中噂がたちます。それは恥だというのです。私が勤めに出たいと云ってもゆるされません。何分世間体があるからというのです。だから、私は今迄、内緒にいろんなことをしてお金を得ました。飴屋もしました。石けん屋もしました。佃煮屋もしました。知合から知合の紹介をもらったり、見知らぬ人の裏口にも声をかけました。いくらかずつの口銭で、煙草やコーヒをのみました。雑誌や骨董品を買いました。自分のことだけで生きてゆけばいいのですから、家のことなんか考えなくともと思います。その夜は、久しぶりに信二郎とダイスをして遊びました。

 あくるあさ。
 私は、東さんの所から来た使いの人に品物を渡し、現金を受け取って父のまくら許に置き、銀器をうるために出かけました。二十三円五十銭で全部を堀川さんに買いとってもらいました。三万六千円とわずかでした。菊の御紋章入りのさかずきは何故か特別、光りがよいようでした。銀の肌に私の顔がうつります。はっと息をふきかけるとその顔はきえます。他愛のない仕草をくりかえしていると、堀川の主人がそれをみて笑いました。桐の箱の紫の紐が、かるくひっぱったのにぷつりときれました。きれっぱしの紐を、お金と一しょに私は大事に風呂敷にしまいこんでかえりました。家へ着くと、叔母が飛んで出て来ました。
「父様がおわるいのよ、でね、大阪の野中先生を呼んで来てほしいんですって」
 父の居間へはいると一種の臭いが致しました。喘息がひどくなると、この嫌な臭いがするのです。母は背中をさすっておりました。父の友人の野中さんは大阪で大きな病院を経営しておられる方でした。私はすぐにその方を呼びに参りました。忙しくしておられて、直接お会い出来ませんでしたが、丸顔の人のよさそうな看護婦さんが、きっと今日夕方か晩伺うからとのことでした。すぐ引きかえして三時頃、おひる御飯をたべてますと、兄の病院の先生が来られました。余程、父は苦しいと見えて、母に又、神霊教の先生のところへ行って祈祷してもらってくれとも申します。病院の先生が注射をして帰られ、母が祈祷をたのみに出ました。父は注射の効果もなく喘いでおります。嗅薬をかがせました。煙が散らないように、私は両手でかこいをします。手と手の隙間より、父は、スースー云いながら煙を吸います。暫くしてひどい発作が終りました。晩になって野中先生が丸顔のさっきの看護婦を連れて来られました。又注射をします。静脈の何処をさそうとしても、注射だこでかたくなってしまっており、中々針がはいりません。静脈に針をちかづけると、にげてしまうのです。それでもやっと、二本いたしました。喘息を根治する薬はないらしく、頸動脈の手術も駄目だろうと野中先生は云われました。母が御神米をいただいてかえり、それを煮《た》いて父にのませました。九時頃になって、すっかり発作は鎮まりました。もう今晩は大丈夫だろうと云って母は兄のところへ泊まりに行きました。兄もこの間うちから少し具合が悪く、附添さんにまかせているのは心配だったのです。
 その晩、私は夜中に何かしら目がさめました。こんな事はまれなことで何か胸さわぎがするので起き上って暫くじっとしておりました。隣の室で父はよい按配に眠っている様子。信二郎の部屋をうかがうと、電気がついていて寐がえりをうっているようです。日本間を洋風に使って、信二郎だけは寐台に寐ているのでしたが、その寐がえりの度に、スプリングの音がきこえて来ます。何か頭がさえて眠れないのですが、そのまま又ふとんの中に首をすくめてしまいました。

 翌朝。
 いつも早く目ざめる父が今日に限って、うんともすんとも云わないのを不審に思い、しずかに襖をあけました。と、私は其処に父の死体をみたのです。いえ、近寄ってみて始めてわかったのでした。青くなって、うつぶしている父の体にふれました。ぬくみがほとんどありません。父は死んだのです。私はおどろきました。信二郎を起しました。叔母
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