私に最期のおつとめだとか何とか云って、家中をあらためて掃除し、台所の用具をピカピカ光らせたりした。今夜は大阪の親類へ泊るという、おはるとその母親に、私は近所の肉屋へ行雄を走らせ御馳走した。そして祝儀を包み、帯じめの派手になったのを一本、半襟もつけておはるにやった。
「いろいろ御世話になりました。何にもお役にたちませんで。ぼっちゃんお元気で。又神戸へ出ました折にはお訪ねいたします。本当にお名残り惜しいことですが……」
といつもの調子でべらべらしゃべりたてたおはるは玄関で母親と何度も頭をさげた。
「いずれ大きな荷物は田中に取りに寄越しますから」
母親は、もうおはるのはなしがきまったかのようにその夫となるひとを田中と呼び捨てた。私は思わず苦笑しながら行雄と門まで見送った。おはるは作衛の作の字もいわずに行ってしまった。うらうらとあたたかい二時間、私は何かしらほっとした気持で製作にかかったのだった。
その夜帰った作衛、私はおはるのことを告げた時の作衛の顔をはっきり覚えている。作衛は確かにおはるの行為を憤った。
「何故俺に一言云って行かなかったんだ。あんまりだ。あんまりだ」
と作衛はいきりたった。そして作衛は、おはるのこれから先をみてやるといって約束までしたのだと云った。始めは彼に甘えて、疲れるとやれ腰をもめ、脚をさすれといい、作衛はおはるをしんからかわいがって云われた通りにしていたが、そのうちだんだん好くようになったのだと云った。そしておはるも作衛と一生を共にするとまで云ったと附け足した。私はとにかく、「おはるのためにお前はもう黙ってなさい」とこの時はじめて叱った。
「でもあんまりです。一言の挨拶もなしに、行くなんて、わしを何と思っている、わしはおはると……」
作衛の言葉尻を追究することはどうしても私には出来なかった。それは当然わかっていることだった。その夜、作衛がおはるの居た部屋で長い間しょんぼり坐っているのを見た。死んだおはるの位牌の前に坐っていた作衛よりは、やはり年をとっていた。それからまもなく、おはるの荷物をとりに若い青年が自転車に乗って来た。真面目そうないい感じの人でおはるにはもったいないとさえ思った。丁度、この時も作衛は居らず無事に青年は帰って行った。
そして一カ月、私は夜もろくに寝ずに出品の製作にはげんだ。昔、夫と一しょにききに行ったコンサートの曲目や、好きな小説を題にしたりして六十点ばかりいろいろこしらえた。幸い、援助して下さる方が二三人いて、布のこと、会場のことなど、すっかり御世話になった。私は「芥川龍之介の秋」という題のセンターが自分では一番気に入った。セピアの中にあいの線を活かしたさびしいものだった。行雄が傍に来て一つのネクタイを指し、これがいいと云ったのは、シューマンの歌曲の中の「うるわしの五月」だった。それは濃いみどりの中にあさいみどりとえんじで木の葉のくずした模様を書いたものだった。夫はシューマンが好きで、私に伴奏を弾かせてよく歌ったりしたものだった。そのピアノも財産税にかわって、とうの昔、お国に差上げたものだったが。
行雄は夫の感覚を多分に受けついでいるようだった。その事が私をよろこばせ、「うるわしの五月」は夫も好きな曲だったし、行雄が大きくなるまでとっておいてあげようと思った。
神戸のとあるギャラリーで展覧会及即売会をしたのは、五月のはじめ、ついこの間のことだった。おかげでのこることなくみんなさばけ、文壇人からもおほめの言葉をいただいたりした。そのいそがしさが終った頃、ひょっくりおはるがあらわれて、兵庫に住んでいることを告げた。作衛は折悪く、その時裏で薪割りをしていた。私は二人がどう云い合いをするかびくびくしながら成行きをみていた。作衛はあれ以来、一時すっかりしょげこんでいたが、最近使いに出すと、帰りには必ずのように飲んで来るようになっていた。どこから飲代が出るのかしらと一時は疑ぐったが、それが死んだおはるの着物などであるとすぐに諒解出来た。そして赤くなってふらふらで家までたどりついた作衛は必ずおはるのことを話し、今度会えばころさんばかりのいきおいだったのだ。ところがその日、作衛はおはるを見るとあの時のいきおいはすっかり消えて、何くれ親切に物をたずねたりしているではないか。私は不思議だったけれど喧嘩にならないのがさいわいとほっと安心した。でもそれはその時だけだった。というのは翌日作衛が兵庫のおはるの新家庭を訪問したのである。そのまた翌日おはるが再び家へ来て、私に、それとわかったのだった。思えば作衛は、私の前で口喧嘩したりする事をはばかっていたのだろう。とにかく一大事件が起るにいたった。
おはるがいうには、自分が勝手で洗濯していたところへ作衛がやって来て、どうしても俺のところへ帰って来いといきりたつ。おはるはどうか今日のところは帰ってくれと口をすっぱくして云ったが作衛はさらに亭主に会うという。きょうは夜勤でおそいし、近所の口もうるさいから何とか帰ってくれとたのんだが帰らない。で、おはるは、じゃ明日必ず行くからとてやっとのことで一応納得させたというのであった。その時、作衛は近所へ配給物をとりに行ってて留守だった。どうして作衛に住所がわかったのかときくと私が教えましたという。
「何故云ったの。馬鹿だね、おまえは」
私は、ついぞ口にしたことのない言葉をはいた。黙ってうつむいているおはるをみると、気がいらいらして、しまいには、かなしくなって来た。そこへ作衛が元気よく帰って来たのである。
「奥様、うどんですよ。うどんの配給、まっくろですよ」
作衛は部屋に入って来た。私は黙っていた。おはるは依然としてうつむいたままである。
「おはる」
作衛は怒鳴った。その時にはもう私の手前も何もなかったのだ。皺だらけの額には、名誉や恥などどうでもよいという気持が十分表われていた。私は席をたった。そして庭であそんでいる行雄を隣りの家に遊びにやらせた。そして改めてすわり直した。作衛もそこにすわった。
「おはる」
今度は静かな声で作衛は云った。おはるはだまったまま何も云わない。私はおはるに返事をうながした。と急に喋りたてたのだ。
「奥様、私は申します。ええ申しますとも、このじいさんは一体幾つになるんでしょう。いやらしい、私を追いまわして、ええ、私は人妻なんですよ、ちゃんとした主人があるんですよ。そりゃ奥様、私は今までこのじいさんと何にもなかったとは申しません。ですが、それは済んだことなんです。それをいつまでもいつまでも根に持つなんて、全くいやらしいですよ。ねえ奥様、私はレッキとした人妻なんです。もうじいさんに来ないように誓わして下さい。来てもらったら困ります」
作衛は怒りにふるえて物も云えず唯おはるをにらみつけていた。私はおはるの言葉をきいてこの二人の立場をどう解決しようかと考えるまえに、おはるの生き方を羨んだ。済んだことは済んだことでさらりと水に流してしまって、そこには感傷も後悔も何にもない。私におはるの真似が出来るかしらと思った。作衛はやっと怒りをしずめて、それでもどもりながらおはると云い合いを始めた。それは露骨な、いやな言葉であった。おはるは作衛から私に云いよって来て一しょの屋根の下では反抗出来なかったのだといい、作衛は作衛でおはるが自分に甘えて来たんだといい、二人の云い分はどちらも矛盾しているようであり、きりがつかなかった。私はやっとのことで二人を黙らせ、おはるも悪かったけれど一旦もう嫁いだからには作衛が手をひくべきだ、とそれが私自身の真実の結論ではなくても、一番いい道だと思ってそう云った。とにかくおはるに肩をもって、私が作衛の今後を責任持つから、とりあえず帰れと云った。おはるが帰った後私はさんざん作衛を叱った。自分自身何を云っているのかわからぬくらいカッとしていた。作衛は、わめきながら泣いた。そしておはるを罵り、私をさえも不人情だと罵った。
それから一週間、それが今日である。図案の反古を焼いてしまうとあらためて掃除をし、灰を土の中に埋めた。とその時、木戸のあく音がして庭に入って来たのは、おはる。何となくしおれている様子。
「おまえどうしたの一体」
挨拶もなく私はいきなりきいた。おはるは涙を一ぱい溜めている。
「奥様、私離縁……」
「えっ、離縁……」
私は瞬間はっとたちすくんだ。あの時、私が責任持ちますと云ったのだ。
「奥様、作衛じいさんが来たんですわ、私の留守の間に来て主人に何かつげ口したのですわ、ええ、そうです」
私はあれから一週間、作衛の動向に、うんと注意していた。そして遠方へは行かさなかった筈である。歩いて行けるところの使いばかりで、作衛も私が見積った時間には、ちゃんと帰って来ていた。でもとにかく、私に責任があることだ。で、
「おまえ、どうする気なの……」
と問うた。おはるの母という人に対して済まないとその時、あの割に品のよい面影を思い浮べた。
「致し方ございません。私はこれからも先、どこぞへ女中にまいります。ですがまた、作衛じいさんが来るかも知れません。神戸ですと会うかも知れません。私は郷里へは、こんな姿では帰れません、ですから作衛じいさんに何処かへ行ってほしいのです。そうすれば私、又ここへ御厄介になってもよろしいです」
私は、おはるの勝手な云い分に、多少呆れたものの仕方なく承知した。で附け加えて、「うちへは来てもらわなくともよいから早くどこかへ務めなさい」とぶっきら棒に云った。作衛は行雄を連れて、裏山へ薪をひろいに行かせていた。帰らないうちにと、私はおはるをせきたてた。おはるは、ケロッとして、さっさと帰って行った。おはるはもう結婚したことも、離縁になったことも何ともない様子だった。私はそれから一時間、きまって十時頃、御茶をいれることの習慣を忘れて、ぼんやり坐っていた。作衛がかわいそうだったとおもった。作衛は、本当におはるを愛しているのだと思った。その夜、私はとうとう決心して、作衛に故郷にかえれと云った。熊本の田舎、そこは私の先祖の地でもあった。作衛は黙ってかすかにうなずくと立ち上り、荷物などまとめはじめた。私はふと幼い頃、作衛の背に負われて、盆踊りをみに行った事を思い出した。作衛と別れることは悲しかった。辛らかった。御餞別を包んでやると、始めは辞退したが、やっとそのやせた胸におさめた。
「明朝、かえります。おくさま、ぼっちゃま、お達者でおくらし下さい。じいはひとりぼっちで死んでゆきます。故郷だって、誰もいやしません。死水をとってくれる人もおりません。勿論、おはるに会いません。でも奥さま、これだけ申します。おはるが離縁になったのはわしのせいじゃございません、わしはおはるの亭主に会っておりません、本当です、あれが離縁になったのはあれが不具《かたわ》だったからなんです。結婚したって子供もこしらえること出来んのです。じいはそれをとうから知ってたんです」
空がにわかに、くもって、雨がふり出した。梅雨に入ったのだと、私は庭先に眼をやった。作衛の語ったおはるのことなど、もうどうでもよかった。が作衛と別れるのは、私にしてもやはりさびしいことだった。
翌朝、起きてみるともう作衛の姿はみえなかった。「坊ちゃまに」と、たどたどしく書かれた紙きれと共に木で作った船がおいてあった。ゆうべ、よっぴて作りあげたのだろう。ちゃんと帆柱をたて、帆まで張ってあった。その布は、なつかしい作衛の働着だった。さつまの絣の私の長い思い出のものだった。貧しい贈物を喜んだ行雄は、それを小さな手洗鉢の流れで、浮かばせながら遊んでいた。その姿をみながら私は二人っきりの生活が一番いいと思った。行雄と私の間をさくものはない。私はどんなに行雄を愛したっていいのだ。行雄の眼に、ふっと夫をみた。私は行雄を呼んだ。
「お母ちゃま、何」
かけ上って来た行雄を私は縁側にしっかり抱いた。
「何? 痛いよう」
強く抱きしめた両手の中で行雄はどたばたしていた。
作衛は今頃、汽車にのって入歯をかたかたさせながらどんな気持だろうか
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