など厄介な仕事をいちいちひとりでするには追っつかないほど注文が来、戦前ならばこんな事専門の職人がいたけれども今はそんな伝手さえなく、去年の暮、私はまた新しく若い姐をやとったのだった。
 図案の反古をやきながら、わたしは現実にたちかえった。そしてこの頃の生活のさびしいうちにどこか創作のたのしさを見出して来たのに、ついまた最近、めんどうなことが起り、それに頭をなやまさねばならない事を思い出した。それは作衛と若い姐のことである。
 話はまたむかしに戻るが、作衛は、おはるという妻をもっていた。夫婦して私の幼い頃からずっと面倒をみてくれたのだった。そうして結婚した後も私のために、わずかな月給でもいいから働かせてほしいと云い、軽井沢の別荘番に置いていたのだった。おはるは色が白く、ぽっちゃりとしたひとであったが、長い間、関節炎という脚の病に苦しみ、歩く事も出来ぬ不自由な身だった。作衛はおはるをしんからかわいがっていて、一生懸命、看護につとめていた。厠へ行くにも肩をかし、食事の支度から風呂の世話まで、まるで女房と亭主とさかさまのような状態だったけれども、おはるのため、作衛はいやな顔一つしなかった。おはるは縫物をとてもよくし、私など洗い張りした着物はいちいち軽井沢へ送っておはるに縫ってもらっていた。
 ところがそのおはるが終戦の翌年の春、私と作衛にみまもられつつ死んで行ったのだった。持病の関節炎が結核性だったりしたもんで、しまいには脳がおかされ、物が判らなくなり、その死に方は本当にかわいそうなものだった。軽井沢で葬いをすませて三十五日たったけれど作衛はすっかり沈んでしまい、毎日、位牌の前にすわって泣いていた。私はその白髪まじりの作衛の後姿を何度もみた。だんだんやせほそってさびしそうであった。
 おはるの初盆がすぎてまもなく、神戸に作衛を連れ帰った私は、邸をうりはらい郊外へ移りすんだのだった。その頃になっても作衛はおはるの事を思いつづけていた。夜など、私と行雄が絵本をひろげてゆめのような話をしあっている所へ来て、作衛はおはるの追憶ばなしをしつこい程するのだった。私はそのたびにその時はまだ生きていると思っていた夫のことを思い出し、私にはまだ待つという希望があることを喜び、作衛の孤独に同情した。作衛には諦めなければどうにも仕様のないことだったから。
 ところがその翌年の春に、夫の亡きことを
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