久坂葉子の誕生と死亡
久坂葉子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)媾曳《あいびき》

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(例)[#地から1字上げ]〈昭和二十七年十一月〉
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 今からざっと三年半前、一九四九年の夏前に、久坂葉子は、この世に存在しはじめた。人間の誕生は、偶然に無意識のうちに、それでいておごそかに行われるものだと思う。しかし、この名前は、自分の意識的な行為によって名附けられ、誕生を強いたのであった。この名を、原稿用紙の片隅に記した時は、私一人しか認めることの出来ない名前であったのだから、確かに、この世に存在し得たものではなかった。誰かが認めなければ、その物体の存在価値など、零であるのだ。
 その時、雨が降っていたように思う。私は女学校の時の友人につれられて、島尾敏雄氏の六甲の家を訪問した。それ以前から、私は小説を書いたり詩をノートのはしくれに鉛筆書きしたりしていて、ほんの少し、文学らしいものへの動きは、周囲の人達に感づかれていたのだ。父が俳句をやっていた影響で、登水という号を父からもらい、句会に列席したことなどあるが、それは約半年位で、自ら、俳句をつくることをよしてしまっていた。その後、本名で、詩を投稿し、その一つは「百世」、その一つは「文章倶楽部」に、送ったものは必ず残るといった調子で、本屋の店頭に、わが名を見出したこともあったのだ。けれど、その前者はつぶれ、後者は、あほらしくなり、書いたものは、どこにも出さず山積時代が、三カ月程つづいていた。ところで、その友人が、私をあわれだとみたのか、島尾氏に、こんな女が居るんだと語ったらしく、それならVIKINGにおいで、ということで、私は、島尾敏雄氏なるものも、VIKINGなるものも、まったく御存知ないままに、三十枚ばかりの小説をもって、六甲へ行ったわけなのだ。その小説は、アカンとされたのだが、私が、はじめて、久坂葉子なる名前を附したもので、一週間位して、第二作、「入梅」を、島尾氏のところへ持って行き、それがVIKINGにのったのだ。
 島尾氏は無口な人であった。だから、私は、傍のベッドに、キョトキョトしていた赤ん坊ばかりをみて居り、かわいいですね、位は云ったように記憶している。二度目の訪問は、私一人であったから、余計、その対面は、かたくるしく、縁側の椅子に、浅くこしかけていた私は、膝の上のぼろぼろのハンドバッグを、一度ならず二度程、ガシャンと落した。
 八月の最終日曜日。私は、彼と共に、VIKINGの例会に出席した。阪急にのって、高槻の御寺までゆく間、一言も喋らなかったようである。車中、彼は、さらの木綿の風呂敷を膝の上において、本をよんでいた。私は、えんじ色と紺色のその風呂敷が、先生に似つかわしくないものだ、と思っていた。
 広い、がらんとしたお寺の座敷で、私は、焼酎なるものをはじめて飲んだ。そして、久坂葉子と紹介された時、かつて経験したことのない、照れくささを感じたものだ。だから、私は煙草をやたらに吸った。大きな声でわめく連中を目の前にしながら、なる程、これが小説を書く人達かいな、と思った。それ迄、私は小説家など全く縁遠い存在であったのだ。当時、私は十八歳であった。会は終ったようでなかなか終らない。すると、いつの間にか、私の膝の上に、重みが加わった。これが富士正晴氏の小さな頭であったのだ。私は、恐怖で胸の中がガンガンした。が持前の気取根性で平気をよそおっていた。冗談の一言位云ったのかも知れない。二次会に、駅の近所でビールを飲んだ。私の隣に庄野潤三氏が腰かけた。彼は、私に名刺をそっとよこして、手紙を下さいと云った。そして、あなたの名刺をくれませんか、と云った。私は、持ってませんとこたえた。しかし、名刺をつくる必要性があるということに気がついて、それは甚だよろこばしい発見であった。(だから翌日、私は、久坂葉子の名刺印刷をたのみに出かけたのだ)
 終電車で、私は神戸へ帰った。岸本通夫氏が、送って来てくれた。殆ど喋らなかった。
 私は、小説を書いて発表出来る機会が来たことに胸がはずんだ。そして、書いたものは島尾氏のところへ運んだ。
「入梅」がのった。その例会は、阪大の中の一室で行われた。いろんな批評をもらった。
「こいつは来々年の芥川賞候補になるであろう」
 と富士正晴氏がつぶやいた。私は苦笑した。芥川賞候補なるものは、十年位書いてなきゃなれるものじゃないと思っていたからだ。けれど嬉しかったに違いない。その後、私は、毎号小説を発表した。その年の暮、私は、はじめて、久坂葉子さんと、新聞記者から電話をもらった。私の記事を出すと云うのだ。私は、電話口でことわった。何故なら、その企画が、絵や舞踊やピアノをやっている令嬢の絵巻とか云うテーマだそうで、私は、その中に加入されたと云うことを、甚だ侮辱にとって、ガチャリと受話器を置いた。「入梅」から、四作目が、「落ちてゆく世界」という七十枚の小説である。これは、VIKINGにのる前に、島尾氏の紹介で、若杉慧なる人に会い、彼がみせて下さいと持ってゆかれた。(島尾氏が直接若杉氏に手渡されたようでもある)暮であったか正月であったか、とにかく寒い日に、私は若杉氏の家を訪問した。彼の目は、蛇のようだと思った。そして、VIKING族の方が、よっぽど愉快だと感じた。若杉氏は、「落ちてゆく世界」を書きなおせ、そして文芸首都におくるようにと云われた。(その題は若杉氏がつけたものである。私は、そんな気のきいた題はつけていなかったようだ)はい、と云って帰宅し、清書して、東京へおくり、あかんと云われてかえされたのが二月末。それをそのまま、V誌にのせたのだ。偶然、その作が、作品社の八木岡氏の目にとまり、五月末に、電報が来た。「作品」春夏号に掲載すると云うのである。私は、よろしくたのむと電報を打った。それが、「ドミノのお告げ」と題されて、「作品」に発表されたのが、七月のはじめである。正直なところ、V誌に発表されるのと、印刷文字で発表されるのと、別に区別された新しい感激はなかった。然し、原稿料なるものがはいると思った時、少なからず、一人前になれそうな気がした。八月に、私が上高地・乗鞍の旅を終えて帰宅して数日、前田純敬氏より、芥川賞候補作に、「ドミノのお告げ」が選ばれたという速達が来た。びっくりした。「入梅」以来一年たつかたたぬかである。然も、四作目なのである。喜びよりも、えらいこっちゃと心配になって来た。と云うのは、私は、何気なく書いて来たので、書くということに何の論理も持っていなかったからである。多くの作家のように、自分の作品を云々する言葉も勇気も勿論なかったのだ。私は、あわてふためいた。だが一週間後、選外の発表を新聞でみた。何故かほっとした。入選出来るものではないと思っていたのだ。それに、私は、今でもそうであるが、「ドミノのお告げ」を自分の代表作だとは思っていない。好ましくない作品なのだ。ところで、文芸春秋に、丹羽氏のチャーチル会の女優の絵だとか云う批評を発見した時には、大へん怒りを感じた。皮膚でもって、字づらだけで作品をみている、と思ったのだ。然し、辻氏の「異邦人」をよんで、はるかに、私の作品より高いところにあるものだとは感じた。
 候補になったことは、確かに私に何かの刺戟を与えた。でも、作品社の稿料がはいらなかったので、わが家では、偉そうな顔は出来なかった。家族から反対された出発であったから、猶更、私は口惜しかった。家族に対してのみ、どうだい、と云う顔がしたかったのである。だが私は、売れる見込みも注文もないのに、実によく書きまくった。「灰色の記憶」に着手したのもその頃である。今にみとれと思いはじめた。親父とは度々口論をした。小説家なんかは、余程の才能がなきゃなれるものじゃない。それより、お前の幸福のためには結婚して、女らしい生き方をしたらよいのだ、と。斯うなれば、意地である。どんな苦労をしても、何とかやってみせると断言した。親父を遂にだまらせてしまったのだ。親父に対するつらあての気持で、私は、その後新聞関係から、記事を写真をと云われると、こころよく承知をした。親父は渋い顔をしていた。その年の十二月、私は生まれてはじめて、原稿料五百円をもらった。神戸新聞のコントである。大きな顔をして、家族へ菓子を買って帰った。その頃、私は喫茶店につとめていた。一週間に、二度か三度、手伝いに行っていた。一日働いたら三百円であった。休みの日は、朝から、インキ壺と原稿用紙をもって、CIEの図書館へ通った。ストーブがあって暖いのである。一時間に十枚位のスピードで、やたらむたらに書きまくった。私は、何故書くのか、殆ど考えようとしなかった。単純な意味では、家族に対するつらあてだったろう。では、何を書くのか。それも深くは考えなかった。けれど、女流作家のものをよんで、彼女等が描く女にひどく反撥していたから、私の書くものは、たいてい女を描いていた。あらゆる角度から女を解剖してみようと考えた。「灰色の記憶」なども、自分の今までふんで来た道程を、忠実に文章に表現しようとするよりも、一人の女性の、幼年期から少女期から、成長してゆく様を描こうとしたのであった。富士氏からは、よい作品だと云われたが、V会では、綴り方教室だとやっつけられた。私は、ドミノよりはるか以上にこの作品に愛着を感じている。しかし、二度と現在よみかえしはしてない。「灰色の記憶」は、その後清書して、井上靖氏が、ぜひよみたいと云われたので、東京へ送った。彼は、すぐれた作品だと、文学界へ推薦してくださった。然しボツになったのである。私は、灰色をかいて発表して、自分には、技巧の訓練がまるでないのだということを知り、何だか自分に、おそろしくむかっ腹をたてて、VIKINGを脱退してしまった。その前に、島尾、庄野、前田諸氏はやめている。然し私の脱退した理由は、私自身の感情の波で、V誌に肌があわなかったのではない。雨が降っていた。私は富士氏と握手をして、市民教室を出てバスに乗った。ひどくバスの中で泣いた。孤独になって、もう一度やりなおそうと、悲痛な決心をしたものの、途端に、V会脱退を後悔したものだ。それから暫く、私の空白時代である。私は、クラブ化粧品の広告部に、月六千円で嘱託にやとわれた。そしてすぐ、NJBへ月七千円で嘱託にやとわれた。私は、ガタガタした生活をはじめた。前者の仕事は、嘘をいかにうまくほんとらしく思われるかということで、化粧品を片っぱしから讃美し、その化粧をほどこしたら、あなたは、クレオパトラのようになれるんだ、ということを、簡単な文句でかくのだ。だが私は、半年つとめていて、一つも仕事をしなかった。一週間に二度か三度、デスクの前にすわり、外国の雑誌をぺらぺらめくり、一時間したら帰っていた。それでも月給をくれたのだから有難い話だ。さて、後者の仕事は、はじめ、保険の外交員のようなことをしていた。放送をおたのみしますと、デザイナーや美容師にたのむのだ。彼女等はとびきり上等の服をきこんでいたが、とびきり下等な人間共であった。田中千代女史だけは別格である。大した傑物だと、私は頭をさげたが。一向に面白くなく、唯、ばたばたするだけのことであったから、一カ月もするうちに私は飽きてしまった。で、仕事をかえてもらったのが、これ又、大へんなあきれた話。有名な小説の朗読用脚色である。女の一生を女の半生にしてしまい、ルージンをきき物に化けさせる。最も最初にもらった仕事は、源氏物語を十五分で語らせるという、冒険ものであった。女性教養文庫の朗読は、放送以来半年位、私の仕事である。明日迄とか明後日迄とか注文され、自宅へ帰って徹夜仕事で、十五分ずつに区ぎり、明日のおたのしみをつくるのである。私の小説は、どうぞ、こんな目に会いませんようにと思ったものだ。その他、子供の童話劇を数本つくった。人のものをアレンジすることを嫌う私は、すべてオリージナルでやった。演出もした。ラジオとは、あきれたものだとアイソがつきた
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