、はるかに、私の作品より高いところにあるものだとは感じた。
 候補になったことは、確かに私に何かの刺戟を与えた。でも、作品社の稿料がはいらなかったので、わが家では、偉そうな顔は出来なかった。家族から反対された出発であったから、猶更、私は口惜しかった。家族に対してのみ、どうだい、と云う顔がしたかったのである。だが私は、売れる見込みも注文もないのに、実によく書きまくった。「灰色の記憶」に着手したのもその頃である。今にみとれと思いはじめた。親父とは度々口論をした。小説家なんかは、余程の才能がなきゃなれるものじゃない。それより、お前の幸福のためには結婚して、女らしい生き方をしたらよいのだ、と。斯うなれば、意地である。どんな苦労をしても、何とかやってみせると断言した。親父を遂にだまらせてしまったのだ。親父に対するつらあての気持で、私は、その後新聞関係から、記事を写真をと云われると、こころよく承知をした。親父は渋い顔をしていた。その年の十二月、私は生まれてはじめて、原稿料五百円をもらった。神戸新聞のコントである。大きな顔をして、家族へ菓子を買って帰った。その頃、私は喫茶店につとめていた。一週間に、
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