、はるかに、私の作品より高いところにあるものだとは感じた。
候補になったことは、確かに私に何かの刺戟を与えた。でも、作品社の稿料がはいらなかったので、わが家では、偉そうな顔は出来なかった。家族から反対された出発であったから、猶更、私は口惜しかった。家族に対してのみ、どうだい、と云う顔がしたかったのである。だが私は、売れる見込みも注文もないのに、実によく書きまくった。「灰色の記憶」に着手したのもその頃である。今にみとれと思いはじめた。親父とは度々口論をした。小説家なんかは、余程の才能がなきゃなれるものじゃない。それより、お前の幸福のためには結婚して、女らしい生き方をしたらよいのだ、と。斯うなれば、意地である。どんな苦労をしても、何とかやってみせると断言した。親父を遂にだまらせてしまったのだ。親父に対するつらあての気持で、私は、その後新聞関係から、記事を写真をと云われると、こころよく承知をした。親父は渋い顔をしていた。その年の十二月、私は生まれてはじめて、原稿料五百円をもらった。神戸新聞のコントである。大きな顔をして、家族へ菓子を買って帰った。その頃、私は喫茶店につとめていた。一週間に、二度か三度、手伝いに行っていた。一日働いたら三百円であった。休みの日は、朝から、インキ壺と原稿用紙をもって、CIEの図書館へ通った。ストーブがあって暖いのである。一時間に十枚位のスピードで、やたらむたらに書きまくった。私は、何故書くのか、殆ど考えようとしなかった。単純な意味では、家族に対するつらあてだったろう。では、何を書くのか。それも深くは考えなかった。けれど、女流作家のものをよんで、彼女等が描く女にひどく反撥していたから、私の書くものは、たいてい女を描いていた。あらゆる角度から女を解剖してみようと考えた。「灰色の記憶」なども、自分の今までふんで来た道程を、忠実に文章に表現しようとするよりも、一人の女性の、幼年期から少女期から、成長してゆく様を描こうとしたのであった。富士氏からは、よい作品だと云われたが、V会では、綴り方教室だとやっつけられた。私は、ドミノよりはるか以上にこの作品に愛着を感じている。しかし、二度と現在よみかえしはしてない。「灰色の記憶」は、その後清書して、井上靖氏が、ぜひよみたいと云われたので、東京へ送った。彼は、すぐれた作品だと、文学界へ推薦してくださった。然しボツ
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