かせながらふってみた。一が出た。私はコップに水をくんで来て、薬全部をのんだ。私は、寐着にきかえる暇もなくふとんの上によこたわり、二枚のかけぶとんを首までかけた。その時、階下で電話の鈴がなった。まもなく、母が階下から声をかけた。
「ボビ。御電話よ」
「もう寐たと云って……」
 私は辛うじてそう云った。頭ががんがん鳴り、動悸ははげしく打った。体中がしびれてぐるぐるまわっているような気がした。すぐに私はもう何も感じなくなっていた。
 自殺するということも、死んでしまうことが出来なかったということも、これは全く喜劇であると考えたのは数日後であった。
 完全に五十時間の私を記憶していない。唯、人の話によると、七転八倒し、苦しみもがき、嘔吐し、自分の髪の毛をひっちぎり、よく云われる生きながらの地獄であったそうな。
 気がついた時、私の耳にラジオがきこえた。
「ヘ短調ね」
 私は口の中で呟いたようだったけれど、声には出なかった。脚も手も動かそうとしても動かない。傍に医者が私の表情をみまもっているのがぼんやりみえた。私は生きていることをうっすらと感じた。私は目を閉じてうす笑いを浮べた。その笑いは自嘲とも得心ともつかぬものであった。二三時間たったのであろうか。私は体全体のいたみを感じはじめた。片手をゆっくり動かし、もう一方の腕をさわった。皮膚の凸凹が注射の跡であることを知った。その手で肢体にもふれた。更に多くの凸凹にふれた。熱が相当たかかったし、頭痛や腰痛がかなり激しかった。目の上に、うすい膜がはられたように、みるものが全部灰色がかってみえた。ひっきりなしに、喉の渇きを感じ、水呑みの先に口をくわえたまま、冷い水をお腹まで通すことを続けた。
 それは夕方から晩にかけてであった。
 翌日、大部意識もはっきりして自分の存在が、ひどくあわれっぽく感じた。父母や兄弟の顔がみえた。私は字がみたかった。しかし机下にもって来てもらった新聞は、二重にも三重にもなって六号活字でさえ判読出来なかった。上体を起して窓の外をみた。風が、ぴりぴり窓ガラスにあたっている様と、桜の木や楓の葉が殆ど落ちている様とが目新しく映った。
 私の捏造した遺書は既によまれているとみえて、兄は私の恋愛を詮索しようとした。それに対して母は自分の唇を押え、そんな詮索はよせと兄に示した。私は、何故かくっくっと笑った。どうして、そんなことまで偽らねばならないのであったろうか。殊更周囲の誤解を招くようなことを自分から強いてみせつけるなどは、自分自身全く常識で判断しかねた。私は白い敷布と、枕下のガーベラ(これはあの未亡人の御見舞いだということを母からきいた)と自分の体とがまるで不調和のように感じた。
 数日後思ったのである。あの日、私が未亡人の家へ行きさえしなければ、又、電話さえかからねば――未亡人からの電話であった。――家中の人が翌朝まで私のことに気付かなかったに違いない。そうすれば私は死んでいたかも知れない。別に慄然としたわけではない。唯、こういう運命的な出来事がひどく滑稽に思われた。自殺することは、今までのあらゆる抵抗の最もちぢめられたしかも最も大きなものである筈なのに、抵抗する力を失ってよくも生への抵抗を試みたものだと自分で苦笑した。筆と硯を持ってこさし、ちり紙の上にいたずら書を始めたのはその又翌日であった。私は無感動であった。おめおめ生きかえった自分に恥辱を感じなかったし、こんな事件を起して申訳ないという殊勝な気持も起らなかった。空虚は、その事件前よりかなり私の心を占めていた。でたら目な文章を大きな文字で天井をむいたまま筆をすべらした。
 医者は毎日二回来て、私に注射した。年寄りの付添さんが午後にやって来て私の体をさすった。一週間もそうしてすぎた。私は杖をついて歩くことが出来るようになった。家族は私の死に対して何の口出しもしなかった。私の机の中は元のままで遺書だけ取り除いてあった。私はすぐに又死にたいという衝動は起らなかった。もうどうでもよく、生きることと同じように死ぬことさえ面倒に思われた。年があらたまってからも私はそんな気持を抱いたまま会社へ出ていた。分家氏にも既に毛頭の興味なく、他に新しく入社した若い子達に何ら心動かされなかった。私は唯、命ぜられたことをやるだけであった。以前程、給料袋をうれしいとも思わなかったし、人に物を与えて優越感も抱かなかった。給料をもらうことは当然のような気がし、人に与えることは自分をよくみせたいというへんな虚栄だと思ってやめてしまった。そのうちに、私の肉体が非常に疲れやすくなって来ていることに気付いた。朝の掃除が過度の労働に感じた。バケツを持って二三歩あるくと動悸がする。お盆の上に茶碗をのっけて客前へ運ぶことすら、腕に苦痛をおぼえた。私は階段からこけたり、薬鑵をひっくりがえしたり、何度も粗相をくりかえした。頭痛が絶えずしており、微熱すら伴っていた。医師の診断をうけた私は、急性の軽い胸部疾患であることを知った。私は会社を辞することを命ぜられた。三カ月は療養せねばならなかった。別に病気をおそれる気持もなかった。唯、斯うしろと云われたままに動くことが出来るようになっており、自分の意志表示をすることは面倒であった。いや意志すらなかったに違いない。
 三月の末、私は退職手当金のわずかと、その月の給料をもらい、社長以下にぺこぺこ別れの挨拶をして会社をやめた。分家氏は、又よくなったら来てほしい、と云ってくれた。秘書は私に人形をくれた。小使のおばさんは、よう働いてくれた、と何度もくりかえした。私が入社した時、皮肉を云った石岡さんは、
「やっぱりかよわいお嬢さんでしたね」
 と云った。別段私はその言葉を何のひびきも持たないできくことが出来た。
 私は自分の皮膚が青く艶を失っており、胸のへんがげっそりくぼみをつくっていることにたいして気を留めなかった。退職金で二カ月はぶらぶら出来ると考えた。別に絶対安静をしなければならないほどではなく、毎日、ビタミンの注射をする程度で、薬も服用していなかった。レントゲンにあらわれたかげの部分はさして広くもなく、神経を使わないでおればすぐに熱も降りた。私は退屈な時間をもてあましながら、読書も映画も強いてとっつきたくもなく、たわむれに絵をかいたりしてその間だけはわずかな慰みを見出していた。世間と急に没交渉になってしまったことは、別にさみしいとは思わなかった。人と人との愛情よりも、空気や自然の色彩の間を愛していることの方が私にはよいように思い始めた。
 生き返ったことが不思議ではなく、一つの経験をしたというほか何の感慨もなく、体をこわしたことも、その原因をただす気さえ起らず、運命的なもののように思われた。流れに身を置いて、その流れてゆく方向に同じように流されてゆく自分を知った。いままでのたえずくりかえしていた事件に疲れたのかもしれない。身も心もアヴァンチュールを求めるほどの活溌さや自信を失ってしまっていた。情熱など更になかった。今まで着ていた衣をぬぎすてて、枯淡の世界へはいるのだと気付いた。いさぎよくはいってゆくのでもなく、そうかと云って若さに未練をもつこともなかった。唯なんとなく枯淡をあくがれたにすぎない。物慾も消えてゆく。強いてひたすらに思ってみたりすることも興味ない。まだ二十歳まで二三年あるというのに、私はひっつめ髪をし、黒っぽい服を着、化粧すらしないで家に引籠っていた。
 家族は私の変貌に半信半疑の目をむけていた。しかし一種の落つきのようにみえる私の態度に安心もしている様子であった。
 私はその頃、はじめてのように自分が女であることを意識しはじめた。いや、それまででも、会社に通っている頃、何となく化粧して手鏡にうつる自分の顔を観察してみたり、歩く時の姿勢に気を配ったりしたものだが、本質的に女性ということの内部へはふれていなかった。私は時折日本の女流作家の随筆など拾いよみした。けれど、そこに見出される女性は全く精神的にアブノーマルであるか、そうでないものは、あまりにも生活にむすびついた唯、身の周辺に刺戟された女性をしか、発見出来ないでいた。もっと奥底に流れるものを知りたがったのに、それ等は私を満足させなかった。
 私は自分をみたり、母親や女の人達の考えることや行動に注意してゆくうちに、それが滑稽なほど、男性や或いは生活によって巧みに動かされ、丸くなったり四角くなったりすることに気付いた。特殊な場合があったとしても、それは世間的に通用しなく、弱さを無理にカヴァーして意地をはっているようにしか思えなかった。私は両者ともひどく軽蔑した。そして自分をもその中にふくみこんで自己嫌悪した。
 女が鏡をみるのは、自分をみると同時に、自分がどんなにみえるのかを見るためだ、とある作家が云っていた。私には、それぞれの女性が、たえず自分がどんなにみえるかのために、あらゆるポーズを試みているように思われた。女が其の恋愛をしてみたところで、それは真の恋愛をしているその瞬間の快楽よりも、そうすることの得意さ、人の目に映じる自分の姿に対する自己満足にすぎないように思われた。(それが女性の快楽であるかもしれないが)今まで、涙ながして何度もみた恋愛映画に於いても、私は思いかえしてみて、そこにあらわれたいろいろの女性は悉くそう云った自己満足のように思われた。それがハッピーエンドにならなくとも、女は又、その悲劇であることを誇らしげに吹聴し、苦しみもだえることは、苦しみもだえてみせることであるにちがいなく、恋愛でない場合にしても、女流作家が小説をかいて発表するのも、女代議士が立候補するのも、同じように本当の自分をはきだすのではなく、自分を幾重にも誇張してみせるように思われた。私はそのことにがっかりした。そして、自分が礼讃したい女性は皆無であり、ついで自己嫌悪の状態が続いた。
 宿命的な諦めをもって私は表面での女らしさを保持しようと何日か後に思い当った。私は、家庭の仕事にいそしんだ。体も次第に回復して来た。洗濯や料理のあけくれに、家族はますます私に安心した。
「矢張り女だね」
 兄達はそう云った。私は唯笑っていた。早くあたり前の結婚をして、従順らしくし生活に追われて毎日を送る。そうなりたいと念った。いや、そうなるより他ないと思っていた。自分で自分を発揮するだけの自信を取り戻したにせよ、もう私にはそうすることに興味をもたなかった。
 それから一年。それは、今までの目まぐるしい生活にひきかえ、静かな淡々としたものであった。私は、お花を活けてみたり、陶器をならべて幾時間もその肌をみつめていたり、時には夕ぐれの山手街を散歩したりした。
 諦めが私をそうさせた。激しい奔放な性格がけずりとられてゆくのと比例して、大きな喜びもなかった。原始的なものへの郷愁が私を慰めた。私は自分を技巧してみることもしなかったし、神経をいらだたせることもなかった。
 孤独な生活であった。しかし孤独のさみしさが、私には苦しみでなくなっていた。かえってそのさみしさが一種のメランコリイの幸福感でもあった。若白髪が急にふえたのもその頃である。
 はきすてたい自分、憎悪する自分。それがこうまで無反応になってしまえば、仕方がないで済ますことが出来るのだと苦笑もした。
 その間、家の生活状態は次第に売るものもつきて来、全くの収入のない心細さと、昔の生活に対する執着などが交錯して、父は年よりも十も老いこけてしまい、毎夜の食事に交わす言葉も荒れて来た。父には父の虚栄があった。子供には子供の虚栄があった。それは全く逆の位置の虚栄であった。
 何か為さねばならない。商売したっていい。
 子供達はそう思う。お金を得れば自分達の小さな贅沢がみたされる。父は反対した。人にぺこぺこ頭をさげることはどうしても出来ない。それに困っている様子を世間にみせれば銀行の信用も失ってしまう。この提議は子供達に不可解である。そんな理由は父の独断的な解釈であり、やはり父なりの切りかえの出来ない古い頭の虚栄が何も出来させないのだと思う。衝突が度々起った
前へ 次へ
全14ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久坂 葉子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング